【Affectionately】
Prologue.
-フユヲコエテ-
まだ所々雪は残っているが…ようやく現れた地表にはふきのとうが芽を出し木々の緑も色濃く吹き、鮮やかになり始め…太陽の光が更なる演出効果を醸し出している。限りなく青い空の下。眩しいばかりの光と、静かにゆっくりと流れる小さな雲があらかじめ青く染められたようなキャンバスを彩っていき、それはあたかも北国の地にも遅く短い春が訪れたという事を知らされるような…そんな日和だった。
バサッ…カタカタ…カタカタッ…
「もう、春ね」
と、ただ一言だけつぶやき、眩しそうに外の景色を眺め見る少女。
病室に唯一存在する空への入り口。大きく明け放たれた窓からは風が入り込み、白いカーテンのレールをカタカタ、バタバタと際限なく揺らしている…そんな中。片手で、ウェーブのかかった美しい髪を抑えながら。その少女…美坂香里が椅子から立ち上がった。
「ふふ。栞。…こっちに来てごらん。暖かくて気持ちいいわよ」
ふわっ
明るく、開け放たれた窓辺に浅く腰掛け、吹き付ける風に髪を揺らしながら笑顔で振り返る。その視線の先にはベッドに横たわる妹…美坂栞がいた。
「うん。そうだね。お姉ちゃん、手…貸してくれないかな?」
「勿論いいわよ」
すっ
勢い良く…だけど、とても優しく差し出された香里の手。瑞々しく健康的な美しさが見える。しかし逆に栞の手はシーツに溶け込むかのように白かった。姉とは対照的な要素を含み…病的なまでに。
それもそうだろう。元から色白な体なのに。数ヶ月以上も入院生活を送り、殆ど日の光に触れていないのだから。
ギシッ……スッ…
少し硬めのベッドのスプリングをぎしぎしと揺らし、香里に両手を取られ支えられながらも少しずつベッドから離れていく栞。
生命維持のための…極めて困難な治療は、ただでさえ弱い体をこれでもかと言わんばかりに痛めつけた。痩せ細った身体は、それを如実に物語っている。
「ごめんね。お姉ちゃん」
小さな声で申し訳なさそうに呟く栞。
「何言ってるのよ。全然軽いわよ。あなたの身体は…」
微笑と共に弱気になった妹を慰める香里。
スッズッ
床にちょこんと並んだスリッパをぎこちなく履き、引きずられるように歩む。
「…そうかな?」
「ええそうよ。少し、太った方がいいわね」
ズッ、ズッ
「あは…。退院したら、ご飯…いっぱい食べなくちゃね…」
「そうねぇ。いっぱい作ってあげるわよ」
ズッ、ズッ
「ありがと。お姉ちゃん」
「ふふ。退院したらおでぶさんになっちゃうくらいいっぱい、腕によりをかけて美味しい御馳走を作ってあげるわ」
ズッ、ズッ
「う〜ん。美味しいのは嬉しいけど…おでぶさんは嫌だよ〜」
「冗談よ。でも、デザートはハーゲンダッツのバニラアイスにしてあげるわね」
「わあっ!嬉しいな〜」
好きなデザートの事に触れ、お世辞でなく本心で喜んでいる栞。
ズッ、ズッ
互いに微笑み、とりとめもない話を続けながら。ゆっくりと窓際へと歩む姉妹。
そして。
スッ
窓辺に姉妹二人、腰を掛けて。
「ほら。気持ちいいでしょ?」
「ん…。ほんとだね…」
まだ少しだけ冷たさも含まれているが。心地よい風が栞の短い髪をサラサラとゆらした。燦々と降り注ぐ光を手で覆いながら互いに笑顔を見せ合う。端から見れば何の変哲もない…よく晴れた一日の出来事。
長く…辛い冬を越えて、彼女たちがずっと長い間待ち望んでいた風景とは、そんな素朴な…ありふれたものだった。
これは、それからのお話…。
Shiori Misaka.
-アコガレイジョウ・コイビトミマン?-
「祐一さん。『例えば』ですよ…」
恋人同士。ざわつく商店街を何はともなしに歩みながら。さり気なくここ数日間…いえ。本当は入院中から…数ヶ月間も前からずっと考えてきたことを聞いてみる。
「うん?」
私の歩調にあわせてゆっくりと。でも、決して歩みを止めずに視線を向けてくる祐一さん。
「例えば。…目の前にとても堅くて、しかも鍵もかかっていて開かないドアがあるとします」
「うん」
彼は素っ気なく頷いただけだけれど。…それだけでも、興味を少しだけ持ってくれたようだと一目でわかる。
「でも、そのドアの先にはとても大切な。…自分にとって、無くてはならないほどの大切なものが置いてあるとします」
「うんうん。それで?」
「そんなとき、祐一さんはどうしますか?」
「そりゃー。心理テストか何かか?」
「うーん。似たようなものです」
心理テストというよりは、彼がこの質問に対しどのような反応をするのかを見てみたいと。ただそれだけなんだけれど。祐一さんは人差し指をびしっと立てて…。
「迷わずプラスチック爆弾で爆破」
「わっ!そんな答えはダメですっ!」
「どうして?俺は『問答無用』というステキな四文字熟語が好きなんでね」
「ぜ、全然ステキじゃないですよっ!」
いつもながら。彼の意外性の強い…予想外の返答には驚かされる。奇想天外というか何というか。
「いや。俺はRPGとかやってるといつも思うんだが…開かないドアがあったら、わざわざ鍵なんぞ探さずに無理矢理にでも破壊しろってな。そんなところでつまっているんじゃあ、まだるっこしくて仕方ないぞ」
彼の、本論から大きく逸脱した答えに私は慌ててしまう。私の予想などとは全く外れていて…。それはそうと。
「…RPGって、何ですか?」
「ロールプレイングゲーム(Roll Playing Game)だ。まぁ、一言でいえば主人公になりきって架空の世界を冒険するジャンルのゲームのことだ。定番で言えばドラクエ(DragonQuest)とかFF(FinalFantasy)とか、ウィザードリィとか。そういうタイプのゲームだよ」
それくらいなら、ニュースや雑誌なんかで少しくらいは見た覚えがあるけれど。
「私、そういうゲームはしたことがないので知らないんですが…。でも、そうすると中にある大切なものまで壊してしまいますよ」
「まぁ、それもそうか。…じゃあ、金物屋でバールを買ってきて、それで強引にこじ開ける」
「バ、バール…ですか」
またも予想していなかった答え。彼にとって『妥協』という文字とはどれほどの価値があるのだろうかと、恋人の私でも思ってしまう。
「そ、それでも。その…こじ開ける際、バールも折れたりして…壊れてしまったら?」
「そんときゃ捨て身の体当たりしてでも蹴っ飛ばしてでもこじ開けるしか無いだろう?鍵開けの特別な技術でも無い限りな」
やっぱりそうなるのか…。
「でも仮に…。そのドアの鍵を開けられる人が…すぐ近くにいたとしたら…?」
本当に聞きたいのは、これから。
「そいつを脅してでも開けさせる」
「強行手段ですか…」
脅すのはどうかと思うけれど…。やはり彼の強硬な姿勢は変わらないようだ。
「できれば…。手段を選んでいられる状態なら、そういうことはしないがね。臨機応変、場合によってはそうも言っていられないだろう?」
それはそうだけど。いずれにしても強行手段を取るのが彼の姿勢だとわかった。
「うーん」
彼はやはりそういう姿勢の人なんだなぁ…と、改めて意識するようになる。
「…さて、では。反撃とばかり、こちらからも質問させてもらおうか」
「な、何ですか?」
「いやなに。美坂栞嬢が想定した模範解答を教えていただけるかと思ってね」
模範解答…。
「あることはありますが…」
びしっ!
「小官は是非教えていただきたく存じます。栞総司令官閣下!」
そ、総司令官閣下って…。わざとらしく敬礼する祐一さんに私は、少し困った笑顔を見せながら答える。
「模範解答…と、いうか。私の考えた答えはですね」
「…」
「『誰か頼りになる人に相談して、協力してもらって開けてもらう』です」
「ふぅん。…で?」
ユーモアセンスに欠ける、あるいはありふれた答えとでも感じたのか、ややがっかりしたように投げやりに頷く祐一さん。それよりも彼は私の答えに対して『どうしてそういう答えなのか?』と、自らの好奇心を問うような表情をしているので先回りして解説を始める。
「理由は。…私は非力だから。先程祐一さんが言っていたような開け方はできないんです。だから」
力ずくでの開け方は…できない。
「いーや、そうじゃない。頼れる人ってのは、例えばどういう人の事なんだ?」
「え…。そ、その…例えば、親しい友達とか…兄弟とか…です」
意図的なのか本能的なのかはわからないけれど、私は『恋人』という答えは出さなかった。祐一さんは鋭くて…それを私の照れ隠しだと見たようで…。
「男限定?」
「多分、そうだと思います…」
「ふぅん。そうかそうかそっかー。俺も頼られちゃってるんだな。とっても嬉しいぞ♪」
「わっ!祐一さん、何か勘違いしていませんかっ?」
「むふふふふっ♪照れないでもいいって。栞ちゃん♪」
だ、だれも…恋人だなんて一言も言っていないのに。
ぽんぽん
私の頭を何度も軽く撫でてくる祐一さん。
「うう…何だか恥ずかしいです〜」
「はっはっはっ。栞はホントに可愛いな」
そういって、くしゃくしゃと私の短い髪をいじくって…撫で回す祐一さん。
「そ、そんなこと言う人嫌いです!」
何だか子供扱いされているようで、いつものように口を膨らませて拗ねてみる。
そんな風にありふれた会話をしながら。私たち…どこにでもいるような恋人同士は。夕焼けに染まり始めた商店街を歩いていった…。
* * *
私にとって。彼は…?
相沢祐一さん。…祐一さんとは、どんな人なのかな?
ふと、そんなことを考える。変な言い方をするようだけど、まるで別れる寸前の恋人みたいな難解なクロスワードパズルみたいな事を…。
世間一般で言えば…私たちの関係は恋人同士と言えるのだろう。外見では仲の良い兄弟くらいにしか見えないかもしれないけれど。
でも、もっと本質的なこと。私にとって…彼は?
ほんの数ヶ月前まで、絶望的と言われていた私の命…。
この事実を…誰も受け止められる人がいなくて。
誰のせいでもないのに、お姉ちゃん。お母さん。お父さん…私の数少ない友達…。本当に、多くの人を傷つけてきて。それでも尚…生き続けることを許されて。
今の私たちの関係に満足しているけれど。彼は、そんな私にも…初めて出会ったときからとても優しくて。
こんな事を言ったら彼は怒るだろうけれど…私にとって彼は…恋人というより、力強いお兄さんのような存在なのかもしれない。恋と同時に…そんな、彼の力強さを求めているのかもしれない。
「お慕い申し上げます。お兄ちゃん…なんてね」
思わず笑ってしまう風景だけれど。もし私たちが、普通の友達…ううん、もっと浅い関係。例えば、何の接点も無い、単なる上級生と下級生のような関係にあって、告白をするとしたら…そんな形になるのかな?
ふと、そんなことも考える。無意味な夢想なのだけれど。
今いるところがゆったりと時の流れる…無機質な空間だからかな。少し前まで何ヶ月も同じような天井…壁を見つめてきたから、癖になってしまっているのかもしれない。
「美坂さん。美坂、栞さん。受付窓口へどうぞ」
「あ、は〜い」
そんな、ちょっとした夢想から急に現実の世界に戻される。定期検診の結果が出て、窓口で、処方された薬を受け取るために呼び出されたのだ。
検査の結果は既に伝えられていたのだけれど。『退院後の経過は極めて良好』とのこと。お医者さんからの注意としては『夜更かし・激しい運動』等は厳禁とそれと、とにかく『いっぱい食べて栄養をとること』というおまけ付き。
まあ、どの注意も至極当たり前の事を述べているだけなのだけれど。前者はともかく後者の注意だけはちゃんと守れているような気がする。
「お姉ちゃんの作るご飯。すごく美味しいからね…」
入院中に何度も言ってくれた通り、手作りの美味しいご飯をいっぱい作ってくれる。体重を気にするにはまだまだほど遠いけれど。少しだけ太ったかな。
「…ここも少しくらい、大きくならないかなぁ」
むにゅむにゅ…
ちょっとエッチな悩み。どうしてこう栄養って…身体の肝心の所にはなかなか巡ってくれないのかな?
あ…。そ、それはともかく。…まだ私は体調不十分ということで、一緒に料理を作らせてはくれないけれど。もう少しで出来るようになる…はずだよね?
「早く家へ帰ろっと」
素直にそう思える今は、とても幸せな時間なんだろう。…少なくとも、祐一さんと出会う前の…辛い辛い…あの時よりは。
* * *
ぷるるるるるっ
カチャッ
「はい。美坂です」
『栞?…私よ』
その日はもう夜も遅くなるというのに…突然、お姉ちゃんからの電話。後から考えれば、頭にこびり付いたもやもやの始まりはこの時だったのだと思う…。
「え、お姉ちゃん今どこにいるの。外、すごい雨だよ」
外は暗闇とゴーゴーと吹き荒れる風。…典型的な、春の嵐と言われるような天気になっている。私が病院から帰ってから急に天気が悪化して、雨が降り始めた。段々と次第に強くなり始めているし…。
『今…その…』
押し殺したような…必死に何かを堪えるかのような声。
『そう。友達の家…。今日は…泊めてもらうから…。心配いらないわよ』
早口で、でも…途切れ途切れになりながら回答を切り上げるお姉ちゃん。下手なアナウンサーのように…途切れ途切れに。
「う、うん…わかったよ。お姉ちゃん」
友達の家…そんなの、わざわざ確認するまでもないこと。だから、私は納得するしかできないのだけれど。
『それだけ。じゃあね』
「あ、ま…まってよお姉ちゃん!」
『何よ?』
「その…。名雪さんの家?」
聞かなくても…わかるのに。
『さあね。じゃ』
「…あ」
がちゃんっ
* * *
バシャッ…バシャッ……バシャッ…
…学習能力のない不真面目な患者とは、典型的な例を挙げればこういう人のことなのだろう。
反省もなく、身をもって体験してしまうけれど。つい数時間前にお医者さんから耳にタコさんができるくらい聞かされてきた言いつけ『激しい運動は厳禁』を早速とばかりに破ってしまっている。両親が外出して不在なことを良いことに、無断で…。
「はっ…はっ…。こほっ」
走るのはまだまだ無理だから、小走り状態になり、次第に強くなりつつある風雨に対し飛ばされそうな傘を必死に身体全体で支えながら。
バシャッ…バシャッ……バシャッ…
「はっ…はっ…」
だって…。どうしても気になるから。目指している所は…言うまでもないけれど。
「はぁっ…はぁっ…」
大した距離ではないのだけれど。叩き付ける雨と凪払おうとする風は…今の私には、とても辛い…。
「はぁっ…はぁっ…お姉ちゃんっ…」
ただ…気になるから。本当に、ただそれだけで…辛い思いをしながらも、彼の家へと…まだ冷たい夜の空気に震え…暗い街角の…誰もいない道をひたすらに急ぐ。
「こほっ…。私…ホントに馬鹿だね」
そう、わかっていながらあえて愚を犯しているのだから、本当に救いようが無い…かな。
* * *
そうして、ようやく目的の場所へと辿り着いた。無我夢中で扉を開くベルに手をかけ、一瞬の硬直と共にふと思いとどまる…。
『自分は一体何が不安なのだろう』と。単なる思い過ごしなのではないか…等と、楽観的な予感が自分を消極的にした。
だけど。結果は一目瞭然。…不安のほうが強かった。理性より本能の方が強く働いた。
ぐっ
ごく軽く…扉を開くベルを鳴らす。その先にはお姉ちゃんのいる…場所。
ばたん
出てきたのは、意外にも…お姉ちゃん本人だった。
「…栞?」
「あは…来ちゃった」
笑顔で答えても、歓迎の返答を得られる等とは思っていない。
「『来ちゃった』じゃないでしょ。お医者さんに言われたんでしょ?『激しい運動は厳禁』って!」
「うん…。そうだけど」
ごく普通…日常風景のように自然に、私の馬鹿げた行為を注意するお姉ちゃん。だけど…今は明らかに違う。私を見たとき…一瞬だけ、戸惑いの表情が垣間見えたから。
「こんなに濡れちゃって。大事な時期なのに…風邪でもひいたらどうするのよっ!」
それは…お姉ちゃんの態度は、単なる…誤魔化しに過ぎないのだと、今…はっきりと悟ってしまった。
「お姉ちゃん。あのねっ!」
決して張り合う気は無いのだけれど、こちらも負けずに…強い口調で言い返す。
「私…。お姉ちゃんにどうしても言いたいことがあるんだよ」
だから…それを言うために…ずぶ濡れになりながらも、無理してここまできたのだから。
「…何よ?」
私は少しだけ体が震えている。理由は寒さのせいだけではないけれど…。今は…強がりなんて通じないよ。
「お姉ちゃん。私にとって祐一さんは…憧れ以上・恋人未満の関係なんかじゃないんだよ…っ!」
「…っ!」
不意に揺らぎ、震えるお姉ちゃん…。何かを堪えるかのような…そんな表情をして。
私が告白したのは核心をつく言葉。ずっと持ちつづけてきた戸惑いを打ち消す…最後の兵器…。打ち明けるのは難しいことだけれども。その後は…簡単。ただ、相手の答えを待って…聞くだけだから。
「栞。…私は…」
今度はお姉ちゃんの番。…打ち明けるのは難しい…返答を待つ。
「私は…」
今のお姉ちゃんは、いつものお姉ちゃんとは違うのだ。
「私…は…」
積極的で…明るくて…はきはきとした…そんな性格のお姉ちゃんが、ただ一言を発することさえ苦労している…。理想的な関係とは、そこでお姉ちゃんが何も答えないことから生まれたのかもしれない。だけど。
「私はっ。…相沢君が…好きっ!」
「…お姉ちゃん」
言い切ってから…僅かばかりの沈黙。震え…荒い息をつきながらも…全てを吹っ切った。…と、そんな感じのお姉ちゃん。
僅かに頭を振りながら、押し殺したような声で…。
「やっぱり私も…。自分の想いに…素直になる…わ」
今までの関係がどうなるかも…その先の事すらも…何もかもわからない。ただ、一つだけ確かなことは。
「…っ。だめ…だよっ!」
ただ単に私はわがままなのかもしれない。酷いのは私なのかもしれない…でも、もしかすると全く逆に…酷いのはお姉ちゃんなのかもしれない。だけど…誰のせいにすることもできず。
「ぐすっ。あの人は…祐一さんは私の…恋人なんだよっ!」
風雨を裂く…細い金切り声と共に。譲れない想いを力一杯投げ返したということだけは、確かだった。
Kaori Misaka.
-ヒトハ、カコヲヒキズリナガラ、イキル-
「お姉ちゃん。今、好きな人いるでしょ?」
私の妹。美坂栞の一言。それが、なかなか解けない『もやもや』の始まりだった…。
「ケホッ。い、いきなりなんてこと言うのよ栞!」
土曜日のお昼。居間で少し遅めのお昼ご飯を食べていたら、栞がそんなことを聞いてきた。突然の事に思わずむせ返る。
「ふふっ。だって最近のお姉ちゃん、すごく楽しそうなんだもん。好きな人がいるんでしょ?」
テーブルに体を乗り出して微笑む栞。この娘はもう…はしたないんだから。
「いないわよ」
好きな人なんて。
「嘘だよ。絶対いるよ!」
「本当に、いないわよ」
いない。
「いるよぉ!」
頑固に言い張る栞。
「…そんなことどうして栞にわかるのよ。本人が言ってるのよ。『好きな人なんていない』ってはっきりと」
諭すように言われて栞は口篭もる。
「だって…。だって昔からずっとそうだったから」
「何が?」
「お姉ちゃん。好きな人が出来るといつも。すごく楽しそうな表情になるから…だから」
よく見てるのね…ホントに。だけどそれは違う。少なくとも…今回は。
「きっと気のせいよ」
「うーん。そうなのかなぁ…」
私の応えに到底納得できていない様子の栞…。
「それじゃ聞くけど、栞の方こそ好きな人いるのかしら?」
反撃とばかりにちょっと意地悪っぽく聞いてみる。栞の好きな人。そんなこと…私にはわかっているけれど。
「いるよ。いるけど」
「けど、何?」
「秘密…だよ」
栞は少し寂しそうに答えた。何故だか…まるで想いは届かないと言わんばかりの表情で。
「そう」
私もそれ以上は聞かない。問いつめるつもりなど無いし理由も無いから…。
それだけで、その場は解散になった。栞はこれから病院で定期検診があるとかでいそいそと家を出て行き、私は一人居間に残って考えていた。
「ふぅ…」
食後の紅茶を飲み干して溜息をつく。栞の言ったとおり…本当は今私には想う人がいる。だけど彼は妹の…栞の大切な人だもの。先程…問いつめなかったのは全てそのせい。…禁断の領域だから…。彼は…私と栞を…救ってくれた人だから。
かつて私は…病魔に冒されて後数週間の命と言われていた妹…栞の存在を…否定した。傷つくのが恐かったから。
いずれ…いなくなってしまうのなら『最初から妹なんていなければよかった』なんて。あの娘の気持ちなんて…これっぽっちも考えずに拒絶していた。
あの頃…。
『ぐすっ。お姉ちゃん…』
栞は毎日泣きながら…何度も…必死に私の名を呼び続けていたのに。…毎晩堪えきれずに…私の部屋のドアの外で泣いていたのに…。それなのに…私は。
『私には。妹なんていない…わ…』
ただそれだけ。冷たく…栞に背を見せて突き放し…心のドアを閉じた。
このことは誰にも言えなかった。誰にもわかってもらえるなんて思えなかった。唯一の例外…彼以外は。
「相沢君…か」
絶望的な状況の中。彼、相沢君は私を…ううん、私達を優しく包み込んでくれた。彼のおかげで…私は栞に許してもらえたのだから。
「…そんなこと、できないわよ」
あの娘の大切な人を想うなんて…そんなことは…できない。
今更懺悔が出来るなんて思ってはいない。だけど…病魔から奇跡的に立ち直り、体調も順調に回復して…幸せそうに笑うあの娘を見ていると。それ以上の事象など…望んだりする気にはならないのだから。
* * *
お昼御飯を食べた後、商店街へ出てみた。
春という季節柄もあるのか、いつも以上に活気に満ち溢れている。気晴らしに…ううん。正確に言えば、もやもやとした気分を振り払うために一人で久しぶりにウィンドウショッピングでもしてこようかと思ったのだけど。
でも。
コツコツ…
「あ、相沢君?」
「あれ、香里じゃないか」
「…」
もやもやが消えるどころか、ますます濃くなっていくような気がした。気晴らしに来たはずなのにスーパーの前でバッタリと出会ってしまって…これじゃ、逆効果だったみたいだ。
「…き、今日は栞と一緒じゃないの?」
栞がいないのは知っているけど、少し意地悪に聞いてみる。それは私の照れ隠し…。
「いや、違うけど?…でも、何で俺が栞と一緒にいるっていうんだ」
「だって。あなた達、仲いいから…」
「んー。まあ、悪くはないけどな」
「そう」
恋人に対しても素っ気ないほどの評価。多分それは彼の照れ隠し…。でもそれ以上に、情けないけれど…相沢君の顔をまともに見ることができない。私が恋をしては…いけない人なのに…。気持ちとは裏腹に頬が熱くなっていく。きっと私の顔は林檎のように真っ赤になっていると思う。
「なに、今日明日と秋子さんが仕事でいないから。晩飯の材料を買いに来たんだよ」
「あ、相沢君が作るの?」
視線を明後日の方向に逸らして苦し紛れの質問をすると、彼は軽く手を振って微笑んだ。
「まさか。作るのは名雪だよ。…そろそろ戻ってくると思うんだけどな」
タッタッタッ
「祐一、お待たせ〜。……あれ、香里?」
後ろから小走りに駆けてくる人影。私の親友でクラスメイトの水瀬名雪だった。
「ああ。偶然そこで会ったんだ」
「ふぅん。…そうだ香里。これから何か予定とかあるかな?」
「別に無いけど?」
「それなら、家で一緒に晩ご飯食べようよ〜」
この娘はいつもそうだ。どんな些細なことでも楽しそうに笑ってる。勿論、彼女には彼女なりの悩みがあるのだろうけれど。少し、羨ましくなる。
「ふふ。いいわよ」
でも、私も名雪の明るさを見習わないとダメだともわかる。マイナス方面に偏った思考を変えなければいけないとは。…この娘のおかげで少しだけもやもやが晴れたような気がしたから。もう少しだけ…頼ってみようと思った。
「やったぁ♪早く行こうよ〜♪」
「おい、まてよ名雪!」
タタタタッ
急かすように走りはじめる名雪と、それを追いかける相沢君。商店街はいつしか、夕焼けの鮮やかな色に染まりかけていた。
* * *
バタンッ
「ただいま〜」
「お邪魔します」
礼儀正しく挨拶をして、久しぶりに名雪の家にお邪魔する。
「さ〜。早速作るよ〜♪」
キュッ!
見るからにやる気満々の名雪。キッチンにむかい、さらさらの綺麗なストレートヘアをリボンで結びポニーテールにしていた。
「ん。私も手伝うわ」
触発されたわけじゃないけど、私も少しやりたくなってきた。相沢君と一緒にいると…もやもやがますます濃くなっていくから。すこし間をおきたかったということもあるのだけど。
「はい。エプロン」
「ありがと」
名雪からエプロンを貸してもらい、背中で結び付ける。
「そーいえばさぁ。香里って料理得意なのか?」
「それは食べてからのお楽しみよ」
「んー。わかった。味以外は期待してる」
「…ひどい言われようね」
言われて思わず苦笑する。相沢君らしい冗談だけど、ちょっと不満。
「祐一。香里の腕をバカにしちゃダメだよ。すっごくお料理上手なんだから」
見かねたのか、名雪が助け船を出してくれた。さすがにわかっていてくれる。
「ふ〜ん。そうなのか」
それでも彼はあまり納得したようには見えない。それならこちらから証明してあげよう。
「そうだ。一つ聞きたかったんだけど、相沢君は栞のお弁当を食べたことあるかしら?」
「ああ、勿論あるぞ。それも『大量』にな」
ふふ。やっぱりね。あの娘ったら、加減を知らないんだから。きっと嬉しくて嬉しくて加減を忘れてしまったのね。いつだったか目撃した覚えがある。とてつもなく大きな量のお弁当を作っていたことを。
「実はね、あの娘にお料理教えたの、私なのよ」
栞の病気が悪化する前まで…よく教えてあげたものだった。
「へぇ。量はともかく味はなかなかだったけど…」
「でしょう?だったら期待して待ってて欲しいわね」
「ああ。そうだな」
さしもの、相沢君も納得してくれたようね。とりあえず一安心といったところかしら。
「さ、はじめましょう」
「うんっ♪」
きゅっ!
私も長い髪を後ろで結びつけ落ちないように、邪魔にならないようにした。それを見て、名雪が聞いてきた。
「あれ?そのハンカチ、もしかして…」
「そ。あの娘がプレゼントしてくれたのよ」
栞が私にプレゼントしてくれた…ブラウンのチェックが入ったハンカチーフ。あの娘のお気に入りのストールと同じ柄の。
「ふぅん。栞ちゃんと香里って、ホントに仲良いんだね〜」
感心したように言う名雪。
「だといいけどね…」
私は、満面の笑みでは言えなかったから、それだけでやり過ごした。
あのストールをプレゼントした後に…あの娘の様態を知ったのだから。本心を言うと私は…ブラウンのチェック模様があまり好きになれずにいたのだ。
勿論今は逆。何よりも大切な…あの娘の象徴みたいに感じているけれど。
* * *
それから三十分程経過して。
テーブルいっぱいに色とりどりの料理が並んだ。こんな事を言ったら怒るだろうけど、普段の様子からは想像も付かないほど名雪の手際は良かった。
とてもお腹が空いていたのかパクパクと、勢い良く食べ始める相沢君。
「へー。美味いな〜」
「ありがと。お世辞でも嬉しいわ」
「いーや。お世辞じゃないぞ。…本当に美味い」
「あは。美味しいよ。香里のお料理」
相沢君も名雪も楽しそう。明るくて、楽しい食卓…。
「いっぱい練習したんでしょ?」
ふるふる
溜息混じりに首を振り、否と伝える。
「…違うわ。栞が病気で寝込むことが多かったから、私がいつもあの娘の御飯を作ってあげてたのよ。小さい頃から。…そのうち、いつの間にか自然にできるようになっていたのよ」
「ふ〜ん。そうなんだ…」
少し話題が暗かったかしら。神経質かもしれないけれど心配になる。
…………
そんな風に友人同士、笑談を続けていると。
「そういえばさ」
相沢君が聞いてきた。
「何?」
「どうしたの、祐一?」
後で考えると。次の言葉は…全く予想できていなかった。
「香里は今、誰か好きな人とかいるのか?」
「!」
核心をつく言葉。私は昼食の時と同じようにむせ返ってしまった。
「ケホケホッ。な、なによいきなり!」
栞からも、相沢君からも…同じ事を言われるなんて思わなかった…。
「いや。栞がそんなこといっていたから気になってな…」
もう。あの娘は!
「へ〜。香里って今、好きな人がいるんだ〜」
「…いないわよ」
「あは。私、応援してるからね♪」
「いないわよっ!」
名雪は…!
ポカッ!
「うー。香里、痛いよ〜」
「自業自得でしょ!」
全然人の話聞いていないんだからっ!少し苛立ち、軽く名雪のおでこをつっつく。
「ふーん。でも…本当にいないのか…。そっか…」
お昼の時の栞と同じように、納得できてなさそうな相沢君。好きな人なんて…。私は今…恋なんてしていない…。
してはいけないのだから…。
「いないわ…」
本心とは裏腹に、そう…答えるしかなかった。
* * *
サ…サァァァァァ…………
「あれ、雨が降ってきたよ?」
「んー。そういえば予報では朝までやまないって言っていたような…」
三人で食事をしていると、雨音が聞こえ始め次第に強くなっていく。
「っと。そろそろ帰るわ」
ガタッ
早口で御馳走様と言い、席を立つ。雨は徐々に強くなりゴロゴロと雷も鳴ってきている。それにもう遅いし外は暗くなってきたから、私は急いで帰る決意を固めていた。
だけど。
「で、でもでもでも〜!大雨だし、それに…雷危ないよ〜!」
心配性な名雪の言い方はちょっと大げさだけど、的を射ていたのは確か。ずぶ濡れになって帰るのは嫌だし落雷も危険、とは言って…どうしたものだろう。
良い思案に欠け途方に暮れていると、何気なく相沢君が言った。
「…泊まっていけよ」
断る理由は何も見つからなかった。ただ一言。それだけで、栞の一言から生じたもやもやが、ますます深くなっていくような気がしていた。
* * *
シャァァァァァ………
シャワーの水滴を身体にまとわりつかせ、ふと我に返り自問する。
「私は一体…何をしているんだか…」
と。
栞や相沢君にはその気が無いのだろうけど。隠していたはずの事実を追求されているような気がして…。
「私が望んでいるのは…」
あの娘の幸せ…ただそれだけのはず。
「それじゃあ何故、私はここにいるのよ…」
ここには相沢君がいる。わかっているのに何故…。あの娘の幸せを…私の本心がそうなのか、あるいは表面だけで思っているのかはわからない。とても情けないことだけれど。
私は相沢君との関係をどう進めたがっているのか…自分でも全くわからないのだ。
シャァァァァァ………
雨風の吹き荒れる外とは違い、バスルームには暖かくゆったりとした空間が存在していた。だけど、私の心は冷え切っていて…。
「…どうすれば、いいんだろう?」
涙をシャワーに当てて落としながら…。私はうずくまり、自らの手で身体を抱き締める。
回答を見出せない悔しさと心細さと…迷いと…後悔の念に苛まれながら…。
* * *
プルルルルル……
カチャ
『はい。美坂です』
「栞?…私よ」
『え、お姉ちゃん?今どこにいるの。外すごい雨だよ』
心配そうな栞の声。とりあえず泊まるという事実だけは伝えたい。…本音を言えば…かけるのが怖かったのだけれど、それはただ…義務だから。
「今…その…」
思わず答えに詰まる。
「そう。友達の家…。今日は…泊めてもらうから…。心配いらないわよ」
普段の調子で早口に切り上げる。
友達の家という表現は間違ってはいない。事実、ここは名雪の家であって、相沢君はそこに下宿しているというのだから。彼の立場そのものが特殊なのだ。
だけど、どうしてこんなに後ろめたいのだろう。ただ事実を伝えるだけなのに。
『う、うん…わかったよ。お姉ちゃん』
「それだけ。じゃあね」
『あ、ま…まってお姉ちゃん!』
「何よ?」
『その…。名雪さんの家?』
私にもわかっていたこと。…勘のいい栞はとっくに気づいているのだ。
「さあね。じゃ」
『…あ』
がちゃんっ
「…ふぅ」
半ば強引に…叩き付けるように受話器を置いて、少し考える。
自分の気持ちを誤魔化すことが…こんなに難しいなんて、ほんの少し前までは考えたこともなかった。要は話を続けられなかったのだ。端からは偽善と思われるかもしれないが、…背徳的な行為に罪悪感を感じたから。
「栞だから…ね」
私は恋をしている。それもとても深く…のめり込んでしまっている。だけど彼は…あの娘のだから…。
「典型的なドラマの一シーンみたいだけど。堪えるのも大変…なのね」
自嘲めいた笑みを誰にというわけでもなく見せて。居間に戻り中断された会話を再開する。当座はそれで済むと思っていたから。
だけど…現実は違っていた。
* * *
丁度、相沢君も名雪も席を外しているところに玄関の方からベルが鳴る。
ぴんぽーん
嵐の吹き荒れる中…こんな時間に訪ねてくるとは物好きなお客さんもいるものだと感じながらも、名雪達の代わりに玄関へと向かう。
「はいはい。今開けますよ」
ばたん
そうして、ドアの向こうにいたのは。
「…栞?」
風雨に晒され、ずぶ濡れになり…冷え切った妹の姿。寒さで唇は紫色をしているし…微かにふるえている。
「あは…来ちゃった」
「『来ちゃった』じゃないでしょ。お医者さんに言われたんでしょ?『激しい運動は厳禁』って!」
少しヒステリックになりながらも、弱々しい妹の身体を思いやって注意する。濡れてぺったりと張り付いた服は…身体の細さを更に引き立ててしまっている。
「うん…。そうだけど」
正直、予期せぬ栞の来訪には…ぎくりとしたけれど。優先すべきはそんなこと…私個人の感情論ではないから。
「こんなに濡れちゃって。大事な時期なのに…風邪でも引いたらどうするのよっ!」
思わず声が上擦ってしまう。もしかすると…ううん、きっとそう。内心の同様を栞に悟られたかもしれない。
「お姉ちゃん。あのねっ!」
栞がムキになっている。そして、私はその理由を誰よりも詳しく知っている。私の強い口調は…誤魔化しに過ぎないのだと…気づいているのだろう。
「私…。お姉ちゃんにどうしてもいいたいことがあるんだよ」
もし私が栞の立場ならば、同じ事を…いえ、もっともっと激しく怒りを露わにしていたと思う。拳でも振り上げて…。
「…何よ?」
私は少しだけ、体が震えている。理由は寒さのせいだけではないけれど…。
「お姉ちゃん。私にとって祐一さんは。憧れ以上・恋人未満の関係なんかじゃないんだよ…っ!」
「…っ!」
そうだった。いつもいつも…相沢君と栞の関係を見て『仲の良い兄妹みたい』だ、等と茶化したりしてきたけれど…それは、根本的に…違うのだ。
「栞。…私は…」
今度は私の番ということのようだった。
「私は…」
端から見れば、今の私は、いつもの私とは全く様子が違うのだと思う。
「わたし…は…」
私は自分の性格を…積極的な方だと、思っている。でも今は…ただ一言を発することさえ苦労している…。理想的な関係とは、何も答えないことなのだろうけれど。堪えきれなかった…。もう、限界だったから…。
「わ、私はっ!…相沢君が…好きっ!」
「…お姉ちゃん」
その瞬間。…全てを吹っ切れた。善し悪しなど問わず…とにかく自分の気持ちに素直になる。栞と相沢君の関係がどうなろうと…関係なく。ただ…自我を満たすだけでも…。その意識が理性より優ったから。…後戻りのできない一方通行の道でもあるとわかっているけれど…。
「やっぱり私…。自分の想いに…素直になる…わ」
その先の事などわからない。最低だと言われても構わない…。ただ、一つだけ分かっている事は…。
「…っ。だめ…だよっ!」
酷いのは全部私。わかっている…だけど。栞の頬を流れ落ちる雫を見ても…。
「っ。…祐一さんは…私の…恋人なんだよっ!」
わかっている。わかっているけれど。私も絶対に譲れない…一つの想い。強引にもぎ取った…禁断の果実…。その、自分の意志を思い切り投げつけたということだけは、確かだった。誰よりも大切に想っている…弱々しく泣きじゃくる妹の…栞に対して。
Nayuki Minase.
-トラレテモ、スキナヒト-
親友。美坂香里…香里の様子がおかしいと、思う。
私は自他共に認める鈍感な性格だけれど。それが錯覚でないことくらいはわかる。長年の付き合いというか、女の子の勘といえばいいのかな?
「名雪。パジャマ貸してもらえるかしら?」
「あ、うん。持ってくるから、ちょっと待ってて」
そういって、足早に納戸へと向かう。
………
盗み聞きする気はなかったのだけど、微かに聞こえてしまった先程の電話の内容もそうだったけれど。理由も多分、聞くまでもないことなのだろう。
「…香里も、祐一のこと」
やっぱり…そうなんだろう。多分…ずっと前から。確信を得たのは…夕食の席。祐一の何気ない一言にあった。私は軽く誤魔化していたけれど…一瞬、香里の表情に悲しいものが見えたから。
「好きになっちゃったんだね」
好き…と単純に一言で言っても、日本語での意味は多岐に渡っているのだけど。この場合は『恋愛以上』の感情のことだよ。この時代、ありふれてしまっている表現だけれど『愛情』とか。そのくらい強い想いのこと。
「でも…。栞ちゃんのことで悩んでいる。そうなんでしょう?」
こういうときはいつも決まって独り言が多くなる。…特に、上手くいかない事に関しては。もっとわかりやすく言うと、上手くいかない現実についてだね。
がさっ
そうして、香里に頼まれた女の子物のパジャマを一着タンスから取り出し、居間へと戻ると…。
「ぐすっ。…祐一さんは…私の…恋人なんだよっ!」
玄関の方から嗚咽混じりの悲痛な叫びが聞こえてきた。ニュアンスはそんな感じだけど、それだけで声の主が誰だかわかるし、何を訴えているのかもわかる。
「…栞ちゃん…だね」
どうしてこう。こういうときに限って…事態や人の心境が手に取るように分かるのだろう?
もう少し早く予知できていれば…他に対処法もあるはずなのに。そんなことを思いつつ。玄関へと歩む。
* * *
「ぐすっ…ひっくひっく…」
「栞ちゃん。こんばんは」
等と、能天気な挨拶をかけるべき時ではないのだと思うのだけど。私の中ではTPO(TimePlaceOccation)の感覚が少し…ううん、大幅にズれているようだ。気の利いた言葉が浮かばないのだから仕方ないのだけれども。我ながら不器用で…無力。
「名雪…さん…ひっく」
しゃくり上げながらも予期せぬ第三者の介入に必死に立ち直ろうとする栞ちゃん。
「とにかく中に入りなよ。このままじゃ風邪引いちゃうよ。ほら、バスタオル」
先程から硬直したまま一言も発しない香里に変わって、常識論…ううん、妥当な案を提示する。極めて優しく、諭すように…ね。
「…はい」
栞ちゃんは、まだ幾分しゃくり上げながらも少しずつ言葉がハッキリしてきた。ずぶ濡れになった服と…涙に歪んだ顔をバスタオルでぎこちなく拭きながら。
「栞ちゃん、お腹空いてる?」
「…はい」
「そっか。じゃあ、作ってあるから一緒にご飯食べよ?」
「…」
コクン
栞ちゃんが小さく頷いたので私は居間へと案内する。
* * *
「…」
「…」
姉妹二人…テーブルを挟んで向かい合う。勿論…と言って良いのかはわからないけれど、無口でうつむいて居て。つられたわけではないのだけど、私も祐一も同じように無口。このままではいけないと思ってはいるのだけれど。現実は…何もしてあげられない。だって、悲しいけど…他人事だから…。
「栞ちゃん。お風呂…入っていきなよ。暖かいよ〜」
どうにも気まずいので、極めて優しく…間を取るために言ってみる。
「…はい」
機械のように感情に乏しく…先程と全く同じ口調で呟く栞ちゃん。それでも無理矢理に笑顔を見せようとはしているけれど。私は彼女の案内をしてから再び席へと戻る。
「…香里。今日は栞ちゃんも泊まっていってもらって、いいでしょ?」
外は相変わらず土砂降りの雨。優しい香里だから私の提案を断れるはず無いと、打算を含めて。ちょっと意地悪かもしれないけど、確認の意味合いも含めて言ってみる。
「…ええ」
自嘲の笑みを含めたように、軽く笑って頷く香里。
「…可笑しいわよね。私…」
「香里」
「そんなことを心配するよりも。…もっともっと気を使ってあげなきゃいけないことがあるのに。矛盾してるわよね。…私のしていることは…ね」
「…」
こういうときは本当に、何て答えればいいのだろう。良い考えが全くと言っていいほど思いつかない。仮にお母さんがいたら…何と言うのかな…。
「…私。いろんな人に謝らなきゃいけない。栞に…相沢君に…名雪に。いろんな人に迷惑かけたから…」
「…」
私とは違い…表情を全て隠し、何も答えない祐一。
「相沢君。名雪…ごめんなさい」
「…」
「祐一。何か答えてあげなよ!」
でも、祐一は私の言葉などまるで無視して、少しずつ重い口を開く…。
「香里。お前が謝るのは…何のためだ?」
「祐一…?」
「…」
祐一の…怒鳴るわけではないけれどハッキリとした口調に少し圧倒されたように、驚く香里。
「聞こえなかったのかー?」
言葉のニュアンスに、多少の恫喝と皮肉が含まれている…。普段は全く見えない…祐一の厳しい一面だった。
バンッ!
「…もう一度聞こうか。何故お前は謝る。俺と栞が付き合っていて…その仲に無理矢理割って入ろうとしているから…だから謝ってるってのか!」
「祐一っ!」
強い口調をとがめるけれど、確かにそれは核心をついた言葉だった。香里が祐一を想っていても…言い出せない理由。
「それこそとんだ迷惑だな。どうして最初に栞の心境を考えるんだ。俺が栞と…出会ったときからずっと…同情だけで付き合っているとでも思ってるのか」
祐一もとっくに見抜いているのだ。香里がとても優しいことを…。だから…香里が祐一を想っていても…栞ちゃんの事を考えて…無理矢理心の底に沈めてきていたのだ。だけど、力強い一言で…重い錨は引き上げられる。
「っ。ごめんなさい…」
涙目でしゃくり上げ…弱々しく俯く香里。
「泣いたってなあっ…!」
「祐一っ。やめてっ!」
見ていられず制止する。どんなに祐一の主張が正しくたって…いいはずがないから。言い方を間違えれば、正論でも…凶器になるのだから。
「香里。私の考えを聞いてくれるかな…」
「…」
こくん
静かに頷いてくれる。正直…ホッとしたけれど。
「私ね…。正直に打ち明けちゃうと。私も…祐一のことが…好きなんだよ」
七年以上も前から…栞ちゃんや香里よりもずっとずっと長く…想ってきたから。だから…栞ちゃんと香里に対して微かに…苛立ちがあるのは確かだけど。でもそんなことはいい…。
「でもね…。今はもう…いいの」
届かなかった想い。それはいつしか形を変えて。
「名雪…」
「今は…幸せな祐一…栞ちゃんに香里…。幸せなみんなを見ていることが…一番嬉しいから」
それが私の本心…。嘘偽り無く。
「だからね…。私は…いいと思うんだ…よ。香里が祐一を想うことは…」
ゆっくりと…少しずつ…諭すように言い始める。
私のお節介を…。
* * *
「ホントに…。お前もおかしな事を言うやつだよなぁ」
「うん」
自分でもそう思っているから。
あれから…お風呂上がりの栞ちゃんと香里のお願いで、落ち着いたところで姉妹だけでお話をさせてあげている。私と祐一…要するに、邪魔者は居間から一時退避と…そんなところかな。私は祐一のお部屋でしばらく待ってあげる。
「あの二人だからさ。どういう結論に行き着くか何て事は俺にも大体わかるけど。…俺にそんな甲斐性があるとでも思ってるのか?」
苦笑混じりで、呆れたように聞いてくる祐一。
「祐一なら、大丈夫だよ」
「何が大丈夫なんだか…」
上手く説明はできないけれど…きっと、大丈夫。私にも何となく先行きはわかる。優しすぎる姉妹のお話の…結論は何となくわかるの。それに…祐一は必ず二人を受け入れるから。…私のお節介は、祐一の決定権など無視してしまっているけれど。
「やれやれ…。これで俺は世間で言えば優柔不断の軟派野郎と。野郎連中から後ろ指刺されるようになるんだな〜」
そう。
祐一は…ううん。こういうときは、どんな男の子だって優柔不断。利用…と、言い方は悪いかもしれないけれど。あの二人にはその方がいいのだと、私は思う。決断するのは私ではないけれど…決して無責任に言うつもりは無いけれど。
「くすくす。いいじゃない。可愛い女の子にもてもてで。両手にお花で…嬉しいんじゃない?」
「面白そうに言うな。ったく」
投げやりに言い放つ祐一。だけど、こういう仕草は…祐一の照れ隠しでもあるのだ。祐一は…栞ちゃんも香里も…同じくらいに…好きだから。この場合の『好き』とは『愛情』の感情として…。
「でも…ね」
少しだけ…我が侭を聞いて欲しい。
「一つだけ。お願い…聞いてくれるかな?」
「…何だよ。言ってみろ」
ずっと想い続けてきた人に…お別れを言わなきゃならない。これは…私の問題。
「私ね…。さっきも言ったけど…祐一のこと。好きだよ」
「…」
好きという言葉にも、ニュアンスがある。
「いとことしてじゃなくて。…一人の女の子として…本気の気持ち」
答えはわかっているけれど…。面と向かって…。
「っ。だ、だか…ら。私と…。付き合ってくださ…い」
天然ボケの…お節介焼きの馬鹿な女の子。それが…私。どんなに待たされても…待ち続けていた。
「名雪」
言ってはいけない言葉…。でも今、ちゃんと言わないと…栞ちゃんと香里のことを。とても大事な親友…二人のことを…嫌いになっちゃうから。
「ぐすっ。答え…聞かせて」
七年も…想ってきた男の子は。今でも…これからも…誰よりも大好きな人だけど。一つの想いに終止符を打ちたいから。
「…ごめん」
たった一言だけ。
すっ
「ん…」
「…」
ずっと待ち続けた…ご褒美かなぁ。
「『ドラマじゃこんな時…。主人公はキスをする…』と。栞だったらそんなこと言いそうだしな…。一回くらい…許してくれるだろ?」
「くすっ…う……うっ。…ありがと…」
最後に…もう届かない想いをぶつけるために…思い切り強く抱きしめた。幸せな失恋なんて無いけれど…これで…おっけー…だよ。
「ぐすっ…。祐一…幸せに。ね」
「お前も…な」
これで…おっけー。…笑顔でみんなを観ていられるように…なった…から。
Epilogue.
アル、イロオトコノナヤミ-
「その…なぁ…。俺にも一応、その…世間体というものがあるんだが…」
豆電球の細い光だけが辺りを照らしている、濃いオレンジ色の光が照らす…薄暗い部屋の中で。祐一はベッドに横たわり身体をTの字にし、両腕を大きくいっぱいに広げている。
その長い上の腕には。
「だめです。絶対朝まで放しませんよ」
ぎゅっ!
「そうね。私も絶対に放さないわ」
ぎゅっ!
強く握られて全く身動き取れず、それどころか寝返りすらできず…かれこれ数時間も同じ体勢で疲れたように呟く祐一。
「うう…むぅぅ。そうは言うが、俺も両腕がだんだんと…しびれてきたんだが」
困ったような表情でぼやく。それもそのはず。その両腕には、彼を慕う二人の姉妹が腕枕として占拠しているのだから。
「女の子二人にベッドの上で腕枕をしてあげているなんて、祐一さんも浮気者さんですね」
と、笑顔で茶化す栞。
「あら。相沢君は両手に花を持って、それでもまだ何か不満なのかしら?」
加勢とばかり、香里も祐一にはきつい一言を浴びせる。
「あ…ああ…。そ、そんなことは…ぜ、全然無いんだが。だけどやっぱり…なァ」
反論すら封じられて祐一の声は段々と小さく、弱くなっていく。
「でも、私。こういうのに憧れていたんですよ」
夢見る少女のように…笑顔を見せる栞。
「ふぅん。栞ったら、そういう趣味があったのね」
「お姉ちゃん。それってどういう意味?」
「女の子二人で一人の男を奪い合って、それでベッドで二人同時に腕枕をする…と、そういう趣味」
「そんなこと言うお姉ちゃん、嫌いだよっ!」
「うふふ。冗談よじょーだん」
笑顔で妹をからかう姉。
「わ、私が言ってるのはそんなんじゃないよ〜!その、そんなんじゃなくて…えっと。お姉ちゃんと一緒で…好きな人とも仲良く一緒になること…」
「あら、ついさっきまで相沢君を独占しようとしていたのはどこのどなたさんだったかしら?」
「そ、そんなこと言うお姉ちゃん本当に嫌いだよっ!」
「ふふ。嫌いでいいわよ。でもそうすると。相沢君は私一人のものになっちゃうわね〜♪」
「だ、だめ〜〜っ!」
「冗談よ。じょーだん」
「うう……ぜ、全然冗談に聞こえないよ〜!」
互いに毒舌を駆使した冗談を言い合うが、ブラックジョークに関しては香里の方が遙かに上手のようだった。
「んで。…俺の意志は無視っすか?」
とりあえず、散発的ながらもまだ…反論を諦めてはいない祐一。
「相沢君は私と栞、どちらか…もしくは両方共振って、か弱い女の子を泣かせて…傷つけたいのかしら?」
「私。女の子に優しくない人は嫌いですよ〜」
これ幸いとばかりに要領よく攻撃の矛先を祐一へと変更する栞。
「うぐっ。そ…それは…」
非常に痛いところをつかれ、沈黙するしかない祐一。
「ふふっ。相沢君も純情ね」
つんっ
「うひっ!」
笑いながら、祐一の脇腹を人差し指でつっつく香里。
「あれ。もしかして祐一さん、脇腹弱いんですか?」
「や、やめ…やめーい…うはっ!」
つんつんつんっ!
「うふふ。何だか可愛いわね」
とても意地悪な表情を浮かべて…。身動きのとれない祐一の脇腹を何度もつんつんとつっつく香里。すると、栞も調子に乗って。
「本当だね〜。祐一さん、反応が可愛いです〜」
つんつんつんつんっ!
「あひゃひゃひゃひゃっ!お、お前ら…いい加減に…」
つんつんつんつんっ!
「いい加減に…しろぉ〜!」
がばっ!
「きゃあっ!」
「ゆ、祐一さんっ!」
必死に力を振り絞って両腕を寄せ付け、姉妹を同時に抱きしめる。
ぎゅっ!
「…相沢君」
「…祐一さん」
ふざけて…最初は少し強めに。だけど次第に優しく…抱きしめる。
「くす。そうだ…卒業してから…ね。将来、一緒にどこか別の国に移住でもしてみない?」
絵空事みたいだけれど…夢を語る。
「別の国?」
「一夫多妻制の国にでも。なんてね。そうすれば、公認の仲よ」
「あ。それいいね〜お姉ちゃん。私、賛成だよ〜!」
栞も無邪気な笑顔を見せる。
「あなたはまだまだ卒業に時間かかるでしょう。何しろ、もう既に二浪決定だものね」
「そ、そんなこと言うお姉ちゃん嫌い〜!」
相変わらず、決定権を得られぬまま流される祐一。
「別の国…か。まぁ…」
すっ
「あ…」
「ん…」
祐一は間近にある姉妹の唇に優しく、口付けをする。
「俺に…さ。そんな甲斐性があるとか無いとか…野暮なことは言わないけど…さ」
姉妹と出会った頃を思い浮かべながら。
「栞と香里…。二人が望むなら…何でもやるだけやってみるさ。それで…いいだろう?」
姉妹の想いに対する…祐一の返答は、そうなのだ。どちらか一方でなく…必然的に…二人の為に。そんな祐一に。
「いいわよ」
「いいですよ」
それで…いいと。二人の返事も一緒。
ちゅ…
微かに…祐一の左右の頬を同時に、暖かい感触が走る。
「相沢君。好き…よ」
「祐一さん。好き…ですよ」
それは明らかに恋とは違う。けれど…それ以上の…強い想い。
fin
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(後書き)
どうも、こんにちは。Minardi改vbxです。
今回は私にとって『セットなら一番好き』という、美坂姉妹のお話でしたが。
内容的にどーしても『都合の良さ』が出てしまったかと思って少し反省しています。「普通。もっと泥沼の関係になるぞ」…とか、突っ込まれそうな作品ですし(^^;)
基本コンセプトとして『舞・佐祐理・祐一の関係』を美坂姉妹で実現してみたかったと、実はそういう狙いがあったのですが。祐一の心境をあまり濃く出せなかったことがちょっと後悔の対象になっているかな〜(^^;)
時間設定的に、栞シナリオ後のお話なのでありますが。どんな関係もそうだけど、人間関係って(特に男女間)『恋』だけで説明が付くのかなぁと、常々疑問に思っているので。こういうのも一つの展開として楽しんでいただけたら幸いです。
今回はかなり突貫的な作業になってしまいましたが、どうにも…スケジュール管理に大いに問題があり、時間的に押してしまい焦りましたm(__)m
次からはもうちょっとどうにかしたいものです。ご容赦を(汗)
それではまた…。
※この作品は、2000年冬コミ原稿として発表したものです。