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-勇気、みんなに!-















逃げるように、あがくように。

狭い部屋から狭い部屋へと引っ越して、かれこれ数ヶ月が過ぎていた。

社会人三年目を迎える頃。僕は完全に体調を患ってしまった。

だからどうにかして環境を変えて、気分転換をしたかった。

それでも状況は変わらず。日々、込み上げてくるのは猛烈な嘔吐感。

そして、得体の知れない恐怖感と不安。

その頃の僕は疲れ果て、何かに追い込まれていた。

多くの時間が過ぎ去った今だからこそ、云えることだけれど

我ながら鬱入ってたなぁ、と思う。

それもそのはずだ。

夜。びゅんびゅんと高速で走り去る車のライトを見て思った。

風を切り、轟音を立てて通過する特急電車を見て思った。

『いっそあの中に飛び込めば、楽になれるだろうか?』

だけど。どうにかいつも、寸前の所で思いとどまっていた。

そんな時。駅のプラットホームにて、一人の少女と出会ったのだった。



















 時計の針は朝の七時を差していた。朝日は眩しいくらいに照りつけて、ぼんやりとした意識の中に否応なしに入り込んでくる。その日もいつもと何も変わらないと。そう思っていたけれど、違った。

 後で考えてみると、とてつもなくおかしな一日になったのだった。その時の僕は、まだそのことに気づいていなかった。

「あの〜」

 僕はまだ眠りの中にいたようなものなので、うつらうつらしていると云うか、とにかくぼーっとしていた。いつもの定位置。人の少ないホームの端っこにて電車を待つ。そうだ。この声だ。ここから全てがはじまったのだ。

 それは僕の背後からだった。何だかとっても申し訳なさそうな小さな声に、思わず振り向いて見ると。

「あの〜。高野泰之さん、ですね?」

 通勤途中のホームで女子高生から声をかけられた。ブレザーの制服を着た可愛らしい女の子から。僕が知る限り、見たことのない制服だからここら辺の学校ではなさそうだ。リボンではなくネクタイで、僕はどちらかというとリボン派かな、などと思った。まあそれはいいとして。誰やねん、と思った。見知った顔ではないことは確かだ。

「え?」

 その少女は小柄で、歳の頃は中学生くらいだろうか? いやでも、高校生でもこれくらい小柄な娘はいるよなぁ、とも思ったから実際のところはわからなかった。印象を一言で云うならば、小柄で童顔で一見中学生くらいに見間違えそうな高校生というところだろうか。間違っていたらごめんなさいと云いたい。肩くらいまでの短い髪に、何やらドクロみたいな髪飾りを左側に、右側にボンボン。よくわからんがセンスが変な娘だな、と思った。

「あなたをお迎えに来ました〜」

 彼女はにっこりと笑って、意味不明な事を云った。何だそりゃ? 話が見えない。見えるわけがない。全てにおいて説明不足だからだ。お迎えって何だよ。僕が何か悪いことでもしでかしたか?

「はぁ?」

「あれ、あれ。お名前違いました……? あれれ? おかしいなぁ。あれれれ」

 思わず問い返すと困ったような表情をしたので、その問いは正しいということを云ってやった。僕のフルネームは高野泰之(たかのやすゆき)だ。可もなく不可もなく。変わった名前ではなくてありふれた名前だと思う。全国を探せば同姓同名も結構見つかるんじゃなかろうか。どこにでもいそうな名前であることは確かだ。

「違わないけれど。どちら様? どうして僕の名を知ってるの?」

 警察官とかだったらともかく、とにかくお迎えとはなんぞや。ああいや、何も警察のご厄介になるような悪いことはした記憶がないけれど。でも、世の中には女子高生の刑事がいたりいなかったりするかも、だし。漫画の読み過ぎ?

「えと。私……えーと、そのー。う、上手く云えないんですけど。……そ、そう! し、死神なんです!」

 聞かれて当然のことだと思うのだけど、彼女は狼狽していたというか困りまくっていた。挙げ句に死神だぁ?

 僕は一瞬呆然としてしまった。……何かとてつもなく怪しい事を云っているなぁ。もしかして、ちょっと頭のおかしい人なのか? それとも、やばそうな新興宗教の勧誘かなんだろうか? と、そう思うのは当然のことだろう。だから僕はそれなりの対処をした。洗脳でもされていそうな輩に対する当然の対処として。

「ああ、僕は宗教とか興味ないんで」

「あぅあぅ。ちちち、違います〜。宗教じゃなくて……」

「じゃあ、何かのあやしいセミナー? それもお断りです」

「セミナーでもないです〜!」

「じゃあ、霊感商法? お金ありませんから」

 自慢じゃないけれどワーキングプアなもので。家賃と生活費払ったらろくすっぽ残らないのが悲しい。とは云え、生活できているだけでもまだマシなのだろう。世の中には一生懸命働いていても生活できない人がいるのだから。

「あぅぅぅ……。それも、ちがうです……」

「壷ならいらないよ」

 二百万くらいのありがたい壷でも買わされるのだろうか。そう思って適当にあしらうけれど、なかなかしぶとい。そうこうしているうちに、電車が来た。降りる人が先なので、ドアの脇に立つ。整列乗車にご協力中というわけだ。

「まままま、まってくださいぃぃぃ! え、えーっと。どういう用件かといいますと〜。そ、そう! だから私は、私はあなたを、お、お迎えに来たんです〜!」

「はあ? あの世に?」

「はいです」

 冗談で云ったのに、当たっていた模様。彼女は困ったような表情を引き締めるようにして失敗して、えへへへと笑いながら、そんなことを云った。その様は可愛らしいとは思うけれど、構っていられない。僕は社会人なのだから、時間厳守なのだ。

「……。ああ、悪いけど急ぐので。ごめんね」

「あーーーあーーー。ままま、待ってくださいぃぃ〜〜〜! すすす、少しでいいからお話をぉ〜〜〜! あ〜〜〜〜〜!」

 本当に悪いけれど、仕事が最優先なわけで。僕は彼女を無視して電車に乗り込んだのだった。直後に、ぷしゅーっと音を立ててドアが閉まる。……可哀想、とかなんとかと云えた義理ではないのだけどそれでも彼女は諦めず、電車に乗り込んで再度僕に話しかけようとして失敗してそして、人波に押し返されて、何処か知れず流されていった。

 そして、束の間の一時が訪れる。周りに人は大勢いるけれど、誰も関知しない。云うなれば自分だけの時間だ。僕は少し溜息をついてから、会社に行きたくないな、と心の底から思った。この一人だけの時間がずっと続いていけばいいのに、とも。通勤の時間というものは、時間以上に苦痛だった。

 これから一時間以上もかけて、僕は仕事場に向かう。数ヶ月で職場が変わるようなそんな仕事。小さな小さな会社の、正社員とは名ばかりの待遇だ。世間で云われるような偽装請負だの、偽装派遣だの、そう云った類の立場。客先に出向いて、自社の社員は僕一人だけ。日々、ひたすらこき使われて、出世の見込みなどまるで無し。色々気付いてもやる気があっても所詮は外注だから、職場改革の権限もなし。立場なんてもちろんなし。先輩社員や会社からのフォローなんてありゃしない。そんでもって安月給。どんなに頑張って長時間働いても、残業代なんて出やしない。

 そして嫌なのは、職場が定時デーであっても自分は全くの無関係。『定時なので帰ってくださいー』なんて見回りに来るけれど、僕らは無関係。組合なんてもんは自分とこの社員しか守らないんだな、とつくづく思う。例え隣で一緒に仕事していようが、属している組織が違えば他人ってことだろう。そういう奴らは生きようが死のうが関係ないということだ。とてもうぜぇと思うししむかつきもするけれど、そういうダメ会社にしか就職できなかった自分が悪いのだろう。

 そして云うまでも無いけれど昇給だって、あってないようなものだ。

(所詮僕は使い捨てか)

 最近つくづく思うのだ。自分にこの仕事は合っていないと、適性もないと。それでも……それでも超氷河期と云われた就職難の時代。何十社も当たって、やっと見つけた仕事だった。

 本当に世の中はろくでもないことばかりだ。僕が今やっている仕事は、自社の元請けではなくて下請けの孫請けの曾孫請け。親会社だの大手だの、とにかくでかくて金持ってて権力のあるところが一社二社と無意味に間に挟まって、何もしてくれない癖に搾取はキチンとする。ピンハネだけは堂々としてきやがる。お陰で月に勤務表を何枚も書かなければいけないという、あんまりにも馬鹿馬鹿しすぎる話だ。

 それでも……無名の三流大学を出て、何とか就職して耐え続けてきた。つまり僕は……絶対に辞めたくはなかったんだ。だから数年間、必死に頑張ってきた。石の上にも三年と、人は云う。三年は最低でも耐えたい。そうすれば、いつかは慣れて楽になる、とあり得ないことを信じて。岩にかじりつくかのように。でも、父さんだって母さんだって、誰だってみんなそう思うはずだ。そうだろう? 無理をするな、などと簡単に人は云うけれど、無理をしないと何も続けられはしなかったんだ。

(ニートやフリーターよりはマシ、か)

 少しでも気を抜けば壊れてしまいそうな、そんな日々をどうにか過ごしていた。求めているのはごく普通の平凡な生活なのに、どうしてこうも苦労してもがかなければいけないのだろうか。何もかも、もう少し楽にできないものか、肩の力を抜いて生きられないものか、と、つくづく思う。思うだけなら簡単だけど、実際にはそうはいかなかった。この時代は何とも息苦しくて生き辛いものだろうか。

 そんな鬱になりそうなこと……と云うよりも、実際今鬱になっているのだろう。そのうち倒れるだろうな。――そんなことを考えていると。

「待ってくださーーーい! あなたをお迎えしないと……んぎゅうううううっ!」

 あぁ? 何だ、まだいたのか。それにしても死神だなんて縁起の悪い。冗談としてもよろしくないよな。

 ラッシュ時の、満員電車の洗礼を受ける自称死神少女だったが。押し潰されそうになりながら、同時に空気椅子の刑三十分間。どうやら、人波みに押し流されながらも頑張って僕の方に近付いて来たようだ。果たしてそれは、彼女にとってよかったのだろうか。

「あ、あなたをお迎え……はひゅっ!」

「あ」

(やややや、やめてくださいよぅぅぅぅぅーーーー! やぁぁぁあーーーーんんっ!)

 あ、今度はさりげなく痴漢に遭ってるな。ブレザーの、紺色のスカートの上から小さな可愛らしいお尻をまさぐられているようだった。そして可哀想なことに、誰も気付いていなさそうだ。……助けてあげたいけどでも、僕は僕で全く身動きできない故にどうにもならない。僕は痴漢に間違われないように防衛策として、右手に鞄、左手で吊り革をがっちりと掴んでいるのだから。痴漢は免罪であろうと、一度間違えられたら最後。人生終わりだから。

 けれど、あの娘は気弱な性格なのか、怖くて声も出せないようで反抗すらできないみたいだ。僕も、女の子が痴漢されているのを黙って見捨てるわけにはいかなくて、何とかしてやらないとと思ってきた。

 ……数分後。次の駅でドアが開き、どうにか降りる人の波をかきわけながら一気に彼女の方に近付いて、その痴漢の腕をものすごく強く握ってから『おい』と声をかけ、ぎろっと睨み付けて凄んでやった。そしたら相手はさすがにびびったのか逃げ出した。警察に付きだしてやろうかと思ったけれど、彼女の方が心配だったので声をかけた。

「大丈夫?」

「あぁぁ、ありがとうございますぅぅぅ。助かりましたぁぁぁ! はぅぅぅ。気持ち悪かったですぅぅぅ」

 安心したのだろうか。大きく溜息をつき、だ〜っと涙を流していた。感謝されたのは嬉しいのだけど、君は無防備すぎるよ、と云おうと思った。そんな時、電車はターミナル駅に着いたのだった。

「ふぁぁぁっ! あ、あ、あのですねぇ。えっと。おおお、お話だけでもぉ〜〜〜。あーーーーーんっ!」

 すぐさま、乗ってきた人々の波に流されていく。何というか、哀れな自称死神少女だった。

(あれじゃ逆に、死神さんにお迎えされちゃうんじゃないか?)





そんな変なことがありながら、一日は過ぎていき。やがてお昼になった。





 朝方の眠たい時間帯をどうにか越えて、お昼を迎える。僕はいつものように、外に食事をしにいく。オフィスの中は空調がきいていて涼しいけれど、全然リラックスなどできやしないから。気分は鬱だけど、とりあえず食えているうちはまだどうにかなる。……けれど、食欲も失せ気味だから本格的にやばいかもしれないな。

 まあいい。さて、どこに行こうかと考える。いくつか候補はあるけれど、適当に決定。安いチェーン店に入り、さっさと済ませる。牛丼、ラーメン、蕎麦にうどんにカレー。そして定食。いつもと変わらぬローテーション。僕の昼食はかっ込むわけでもないのに数分もかからない。回転数の早い店は、食事を終えたらさっさと失せなければいけないような圧迫感に満ちている。ごゆっくりどうぞ、だなんて店員さんは笑顔で云うけれど、そんなもの建前ですらない。本音で云ってみろよ、と突っこみを入れたくなる事がたまにある。

(さて。また立ち読みでもしていこうかな。ん?)

 仕方ないから時間を潰すために古本屋でもいこうかな。そう思っていつも通りのルートを辿ることにした。だが。

「あぅぅ〜……。や、やっと……また、お会いできましたぁ〜……」

 路上に、朝方出会った自称死神少女がいた。しぶとい……。

「探しましたよぅ……。乗り換えで迷って迷って……迷いまくって……。うぅぅ……。いっぱい転んで……」

 どこをどう来たのか。見るからに、歩きすぎて疲れ果てたような表情をしている。可愛らしい顔は汗だくで涙目で、お洒落な制服もしわくちゃだ。

「ほぉ」

 かなり根性はあるようだ。それについては素直に感嘆の声をあげてやる。電車内でもそうだったけれどね。

「と、東京メトロって……もう、どこがどこだか、わけわかんないですよぅ〜! それにそれに、都営地下鉄大江戸線ってわかりづらいですよぉ〜〜〜! どこをどう走っているんですかぁ〜〜〜!」

 うん。まあ、確かに。云いたいことはわかる。東京メトロもそうだけど、大江戸線って、ちょっぴり分かりづらいよね。……でもごめん。僕は今、地下鉄は使っていないんだ。都営もメトロも。使ってるのはJRだけなわけで。

 初心者なのだろうか。それともお上りさんなのだろうか。網の目のように張り巡らされた都区内の地下鉄は、ちと敷居が高かったかな?

「まあ、そうだろうな。それはともかく」

「はぃ〜?」

 そこまでして僕に付きまとうとは。やっぱりあれなのだろうか?

「……もしかしてキミは、今時流行のストーカーってやつ?」

 アパートの自室のドアノブに、見覚えの無いビニール袋がひっかけてあって、見知らぬ人からの『食べて』というメッセージと共に食べ物が入ってるとか? 怖いわい。

「ちちち、違いますよぅーーーー! そんなんじゃなくって、お迎えに〜〜〜!」

「じゃあ、ストーカー趣味の死神さん?」

 相変わらず『お迎え』という意味不明なキーワードにこだわるので、ちょっとだけ訂正してやる。違うと云われても、実際やってる行為はストーカーそのものなのだから仕方がない。本当に何なのだろう、この娘は。

「趣味じゃないもん……本当なんだもん……」

 どうしても理解してもらえずに表情を曇らせる。小さな子供のように泣き出しそうな彼女だったが、そんな時。彼女のお腹がぐぐぐーーーーっと威勢良く鳴った。恥ずかしそうにもじもじとしてしまう。

「あぅ。……お腹すいたです。ぐっすん。お昼前には帰るつもりだったのにぃ。お金あんまりないのにぃ」

 何というか、可哀想だ。哀れだ。とは云え僕自身、そう思えるような立場ではないのだけど。それでも、多少のお札は財布の中に入っているわけで。

「お腹ぺこぺこで……もう、死んじゃいそうです」

「死神も死ぬの?」

 茶化すつもりではなく、素朴な疑問だったのだけど。彼女は開き直ったかのように云った。

「死神だって死ぬんですっ! お腹すいたらご飯食べなきゃ飢え死にしちゃいます〜!」

 そうなのか。……ともかく、見ていてあんまりにも哀れだし、このままではずっと僕に付きまとうだろうから、彼女に救いの手をさしのべることにした。……やんわりとストーカー行為はいけないよ、と、注意することも兼ねて、近くにあった喫茶店に入る事にする。腕時計を見ると、まだ時間もあるので。

 つくづく思う。ほんとお人好しだなぁ、僕は。相手にしなけりゃいいのにな。と。





そして待つこと十数分後、注文の品が運ばれてくる。





 小さなテーブルの上にはお皿がいっぱい。

「わ、わあ、わあああ。ほ、本当に……こんなに頂いちゃってもいいんですかぁ?」

「……。いいよ。食べな」

 食べたいものは? と、聞いてみたらあまりにも申し訳なさそうに、それでも年頃の少女らしくおいしい物を食べたそうに迷いまくりながらメニューのいろんなものを『あぅ〜。これ食べたいですぅ』と指差した。けれどすぐに値段見ると高そうなのでギョッとして諦めて安そうなのを指差して『こ、これで……』と、思ったけれどまた迷って。でも食欲には敵わなくて『こ、これもおいしそう……けれど。あぅ〜』と、値段とのにらめっこなった。何だかんだで、結構奥ゆかしいのだろうか?

 そんな姿を何分か見ていたけれど、埒があかない。もう面倒だから強引に、彼女が食べてみたいというものを全部頼むことにした。そうしないと彼女はいつまでたっても何も頼もうとしないから。それくらいのお金なら、あるぞ!

「あ、ありがとうございますぅぅ! じゃ、じゃあ。お言葉に甘えて遠慮なく。……い、いただきまーーーす!」

 灼熱の、コンクリートジャングルの大都会にて。人の情けに触れ、感激のあまり嬉し涙を流しながらスパゲッティにサンドウィッチにパフェにケーキに紅茶、その他諸々。運ばれてきたものを一気に頬張る少女だった。

「あむあむあむあむあむはむはむはむはむはむんんんんーーーーんぐっんぐっ! げほげほげほげほっ!」

「……。ゆっくり食べなよ」

 僕はもう、苦笑するしかなかった。欠食児童かこの娘は。

「ず、ずみま……ぜん。んぐっんぐっんぐふっ! あまりにも……お、おいじぐで……!」

 僕はお冷やを差し出した。彼女は受け取ってこくこくと飲み干した。

 よほどお腹が空いていたのだろう。ひたすら食いまくる。むせかえるのもものともせず食いまくる。ちびっこいなりの割に胃袋は強力なようだ。

「で。改めて質問なんだけど。……ストーカーでないとしたら、君は誰でどうして僕の名前を知っていて、その上どうしようと云うの?」

「んぐーーーん。けふっ。あ、えっと……。今更ですけど、私はこう見えて死神さんなんですよ〜」

 またかい。何なんだよその死神さんってのは。どう見ても普通の女子高生にしか見えないぞ。

 あくまで死神と云い張るなら、それなりのものを見せてもらおう。

「……。証拠は?」

「見たいですか?」

「見せてくれないと、信じろといっても信じられないね」

 それを聞いて、彼女はぱぁっと笑顔になる。そうだ、見せればよかったんだというような。閃きの笑顔に。そして共に、最初からそうしていればよかった、と呟いた。

 そして、食べるのを中断して立ち上がって。

「じゃ、改めてお見せしましょう。えいっ!」

「っ!」

 一瞬、彼女の目が赤く光り。ぶわっと勢いよく何かが現れる。彼女の背中に、それはあたかも幻影のようにおぼろげなものが現れた。幽霊か何かのようなそれは、見間違いようのないもの。死神の象徴とも云えるもの。赤い、大きな刃……。

「鎌……?」



お迎えに来ました



「はいっ! 正真正銘死神さんの鎌ですよ〜。……あ、大丈夫です! 他の人には見えませんし、ついでにちょっとだけ時間を止めちゃいましたから〜。えへへへ」

 ……幻影、でもなさそうだ。これはもう証拠どころではない。彼女の存在が僕に確信を持たせた。恐らく世の中には超常現象なるものが存在し、彼女のような死神という存在も本当に実在するのだろう。

 それに、聞き捨てならない。時間を止めた……? 試しに左腕の腕時計を見てみる。それだけでなく、壁にかかっている時計も。共に秒針は電池が切れたかのように止まっていた。それだけではない。更に、他の客や店員は硬直したかのように動きが止まっていた。空間自体が凍り付いたかのようにして。

「止まってる……」

 これは嘘でもなんでもない。何という事だろうか。さすがに僕は一瞬、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。目の前の少女が僕にとって脅威の存在だということに、ようやく気がついたのだ。人にとって死神は恐怖の象徴なのだから。

「えっへん! すごいでしょ〜? 信じていただけましたか〜?」

 特殊スキルを見せつけてインパクトを与えて、得意げな彼女だった。でも、改めて彼女を見てみると緊張は解れていく。一瞬の緊張が錯覚だったかのように。どうしてだろう? 本来、とてつもなく恐ろしい存在なはずなのに、全然そうは感じないのはなぜだろう。

「でもでもですねぇ。時を止めたら後で報告書を出さないといけないのです〜。悪い事なんて絶対できませ……」

 僕の表情が一瞬凍り付いたのを見逃さなかったのか、彼女は敵意がないことを今更ながらに明らかにするのだけど。僕は余計な事を云ってしまう。からかうつもりはなかったんだけども。

「つまり君は。時を止めてはその鎌で今まで無抵抗な人様の首を散々情け容赦なく無慈悲にざしゅざしゅとかっ切ってきたのだね? 子供だろうと老人だろうと女だろうと目をつけた奴は見境泣くぶっ殺す、と。そして、今度の標的は僕と。既に正体ばらしたと云うことは、もう逃げられないぞ覚悟しろこの野郎、と云うことだね? 僕はもう、まな板の上の鯉状態と云うことだね?」

「はうっ! ちちち、違いますぅぅぅ! そんなこと絶対にしません! 本当です! 信じてくださぃぃぃ!」

 更に続けてしまう。

「そして君はこれから数秒後に、僕の首からぶしゅーーーっと飛び散る鮮血を体いっぱいに浴びて、恍惚とした表情でクックックックックッとか嬉しそうに笑いながら、サディスティックな快感を得るわけだね? この私を散々手こずらせやがって、と云いながらぺろりと血糊を舐めて」

 実際にそういう姿を想像したのか、彼女は段々脅えてしまう。

「あぅあぅあぅぅ……っ。しませんしませんしませんんん……っ。そんな怖くてひどいことしませんってばああああっ! ふえぇぇぇーーーーーん!」

 ……どうにも、かなり怖がりな死神さんのようだ。本当に死神さんなのかよ。でも、鎌はどう見ても本当だし時すら止めているしなぁ。などと思いながら更にいぢめてしまう。

「趣味は大量殺戮に残虐非道行為。好きな言葉は『SATSUGAI』で。好きな音楽は人様の悲鳴、返り血で服の洗濯代がかさむかさむ。漂白剤に漬けても洗剤使っても落ちやしねぇ、と」

「うう……。ぐすぐす……。ちがいますよぅ……怖いこと云わないでぇぇ〜〜〜」

 さすがに調子に乗りすぎたのか、本気で涙目になってきたのでこの辺で話題を変えよう。彼女が一般に云うような、怖い死神とは違うと云うことはよくわかったから。

「ふーん。……ええと、それで。えっと。何さんだったっけ?」

 そう云えば、まだ名前を聞いていなかったな。

「はいぃっ!? えとえと、わ、私の名前……ですか?」

「それくらい聞いてもいいじゃないか」

「む、難しい事を聞きますね!」

 自分の名前を云うのが難しいことなのだろうか?

「えーと。うーと。あーと。私は……そう! 詩野上芽衣子(しのかみめいこ)といいます〜。って。その辺りで、どおですか?」

 しのかみめいこ……。ああ、語呂合わせだろうな。絶対そうだ。今適当に考えたな。きっとそうだ。

「死の神様が冥界に悪い子を連れて行くから詩野上芽衣子?」

「ど、どうしてそれをっ!? ……って。お化けみたいに連れて行くというか、ご案内するのが私の仕事なんですが。それにそれに、悪い子というわけでは……」

「どちらにしても、名前安直すぎ。センスがない。語呂が悪い」

「はぅっ!」

 でも、面白いのでお話を合わせてやる。どーにも話を聞く限り、彼女のような死神というのはビジネスのようだから、世間話をするかのように。

「……で。あんたら死神稼業にとって、今の時代ってのは、どうなんだ?」

「あ。私たちがお迎えに行かなくても、自分から来ちゃう人がいっぱいですから……。って云うか、私たちのお仕事って死にそうな方に『来てみますか〜? どうします〜?』って、聞くだけなんですよ。つまり、絶対に強制なんてしちゃいけませんのです」

 意外だ。本当に。

「死神稼業も大変なんだ」

「はい〜。特に私のよーな外回りは……聞いてもお願いしてもいないのに、今は皆さんいっぱい『行く!』って云っちゃって、お客さんいっぱいで圧倒的に冥界のキャパって云うか定員オーバーしすぎてて、上の方からは『来ると云われても断れ!』と、そんな風になっちゃってんです……。とほほほ」

「はぁ」

「それに、私たちのせいじゃないのに天界からは『自殺者多すぎ! あんたたちいいかげんにしなさい! 生者と死者のバランスってものを考えなさい!』とかなんとか、こっぴどく怒られちゃうんです……。それに対してうちの部の部長というか閻魔様といいますか、電話で『知るかぼけぇぇぇぇ! こっちのせいじゃねぇぇぇ!』とかとか、いつもいつもすごく怖い顔で怒鳴り散らしてますよぅ」

 きっと彼女は、そのこわもての閻魔部長とやらに睨まれただけで怖くて立ちすくんでしまうのだろう。下手すりゃちびっちゃうのではなかろうか。

「大変だね」

「どうしろと云うんでしょう」

 そんな風に、死神さんと世間話なんてものをしてしまったが。本題に入ろうかと思う。

「それはそうと。僕をお迎えに来たってのは、どういうこと?」

「あ、はい〜。……お迎えに。ああ、さっきも云いましたけど強制というわけではなくて、その……断っても全然問題ないです! というよりも個人的にはすっごく断って欲しいのですけど。今、私たちの仕事は『死にたい人を引き留めろ』ってことなんですが。一応聞かないといけないわけでして。あの〜。あなたがその……今、死のちょうど一歩から二歩くらい手前にいるから。来ちゃいますか? って、聞きに来ただけなんですよ」

「……僕が、死の一歩から二歩くらい手前にいる?」

「はいです。確実にそうなのです」

 笑顔でそういうことを云われても、な。自分自身薄々感づいていたとはいえ、結構ショッキングな一言だ。

「そう、か」

 でも。そうかもしれないな、と思った。今はっきりと。きっと、この娘が声をかけてくれなければ僕は……。自分が自分でいられなくなって、死んでしまったことだろう。

「死んじゃだめです。頑張って生きてください、です! って、あ。頑張って、は禁句なのでした。余計に追い込んじゃうから……。でも、ほんとにどーして死神さんが死にそうな人を思いとどまらせているんでしょうねぇ? もう、よくわかんないです〜。あはははは」

 笑顔で云ってくれるのはまぁ、嬉しいのだけど。まったくもってらしくない。

「っとに。死神に云われたくないよ」

「ですよねぇ」

 もっともらしい突っ込みだと思う。でもこれで、彼女の一言で目が覚めたのだろうか。僕の中で何かがはっきりした気がする。

「ん。でも、わざわざ迎えに来てもらって悪いんだけど」

「はい」

「しばらくその予定はないよ」

 決めた。すぐにでも、今の自分の生活に全てケリを付けようかと思う。だからそう云った。

「はいです。それがいいですよ〜。元気が一番なのです〜」

 僕の答えに、彼女も何だかとても嬉しそう。よかったぁ、と笑顔。

「君を見ていて、生きる気力が戻ってきたかもしれない」

「お役に立てて……嬉しいです、けど。私、死神さんなんですよね。あはは……」

 でも。嬉しそうなんだけど、ちょっとだけ複雑な表情になった。考えてみればそうなんだよなぁ。

「私。やっぱり死神さんに向いてないのかなぁ。かっこよくなりたいんだけどなぁ」





理想はこんなん





 そう云いつつほわ〜んと目を閉じる。彼女は今、格好良い自分、とかいう理想のイメージを頭に思い浮かべているらしい。だがここは一つ、はっきり云おう。

「向いてなさすぎ」

「はぅ……」

「どちらかと云うと。天使にでも転職した方がいいんじゃないの?」

「そうかも、ですね。よく云われます」

 死神少女は苦笑い。

「あ。でもでも。あんまりっていうか全然っていうか、その……おすすめはしないしできませんし私、正直云って自殺何かで死んじゃだめって思うんですが。もしですねもし、心変わりしちゃってどーーーしても私と一緒に行きたくなったら……。そしたら云ってくださいね? なるべく痛くなく、しますから」

 かなり嫌そうに云う。死をつかさどる死神も、配慮の時代なんだろか。

「もうちょっとしたら、帰りますので」

「……。わかった」

 答えは決まっている、けれど。もう少しだけこの娘と一緒にいたかった。何故かそんな気分になっていた。

「ちなみに。君にお迎えしてもらうと……どうなるの?」

 魂を持っていく、というのはどういう事なのだろうか。

「楽して死ねますよ」

 あっさりと云い切った。

「端から見ていると、突然倒れてそのまま苦痛を感じずに死んじゃいます。せめてもの救い、ということでして」

 なるほど。安楽死、とでも云うのだろうか。……それでも耳をかさず、悲惨な死に方をする人が減らないのか。生々しい話で、聞かない方がよかったかもしれない。

「とりあえずさ。ご飯、食べちゃいなよ」

「あ、ああ。そそそ、そーでした! 冷めちゃいますよねぇ!」





と、そんなとき。





「ちょっとあなた」

「はぃ?」

 僕たちが座っている隣の席にて。ちょっときつそうな、強気そうな美少女が座っていて声をかけてきた。たまりかねたと云うべきか見かねたと云うべきか、少しばかり苛ついたような口調で。……あれ。確か彼女が今時を止めていた。その中で話せるということは、同類か何かか?

「こんな所で何油売ってんのかしら」

「はぅ! ち、チーフっ! ご、ご、ごめんなさいぃぃ!」

「知り合いかい? あんたも死神?」

「えーと。そのー。私の上司さんといいますか……」

「そう。私は冥界管理局死神一課自殺者対応部所属二級主任。ちなみにこの娘は新人で、四級死神見習い。まだ候補生ね」

 その、チーフさんとやらがご丁寧に説明してくれた。それにしても長い肩書きなこったい。そいでもって、目の前の死神さんがまだまだ駆け出しのノービスと云うか初心者だということもわかってしまった。

「なんだ。見習いだったんかい」

「あぅ〜。恥ずかしいです〜。精進するです〜」

 見習いと云われてしまい、恥ずかしそうに肩を落とす死神さん。

「そんなことはいいの。こっちは人手が足りなくていっぱいいっぱいなんだから、緊急事態だからさっさと手伝いに来なさい。丁度、集団自殺しそうな連中がいるんだから止めに行くわよ。どいつもこいつも練炭だの硫化水素だの持ち出して命粗末にして。ったく」

 ブツブツと物騒なことを呟く上司さん。どこでもそういう奴はいるようだ。もしかすると今晩あたり、ニュースになっているんじゃなかろうか。

「しゅしゅしゅしゅ、集団自殺ですかぁっ!? あぅぅぅっ! そそそそ、そんなことしちゃダメです! 自殺はいけませんです! 命大事にですぅっ! らいふがーどですっ!」

 怖そうに、明らかにびびりまくって動転している新人死神さんに、上司の主任死神さんはクールに云い放つ。何というか、場慣れしているというか、貫禄が違うなあ。同じ死神でも、こうも違うのだろうか?



油売ってんじゃないの。



「まあ、待ちなよ」

 そんな異常な状況にも、僕は落ち着いてしまっていた。人は状況に適応して生きていくものだが。それにしても早すぎるかもしれない。恐らく僕の精神状態は、それだけおかしくなっているのだろう。あるいは、元々人にとっての日常がイコール狂気、なのかもしれないな。

「この娘さ。疲れてるみたいだから、せめてご飯くらいゆっくり食べさせてあげてよ。ね」

 そんなことを云う僕を見て、主任の死神さんは少し面食らったかのような表情になった。今までそんなこと云われた事など無かった、とでも思っているかのように。

「あなたは。この娘に助けられたのね」

 確認するかのように問う。

 そうだ。それは間違いない。始めて赤の他人から、それもよりによって死神から『死相が出てる』と突っ込まれて、ようやく気付いた。今の僕の精神状態……総合的な健康状態というものに。もうやせ我慢をする必要はないし、つもりもない。そのことを気付かせてくれたのは、目の前のどじな死神さん。壊れる前に自衛しようと決意したのだから。

「ああ。そうだよ。この娘は僕の命の恩人だ」

 僕の答えを聞いて、主任の死神さんはふっと目を伏せて穏やかな表情になる。きつそうな感じだけれども、決して怖い人ではなさそうだ。

「……そうね。誰だって食事くらいゆっくり、食べたいわよね」

 どこか遠くを見るような目で、そう云ってから立ち上がる。そして、胸のポケットから手帳を出して、ペンでさらさらと何かを書き込んで、ぺり、と一ページ分剥がしてテーブルの上に置いた。

「いい? 場所はメモしておいたから。ゆっくりでいいから必ず来なさいね」

 そう云いながら、どじ死神さん(と、しておこう)に渡したのだった。

「あ、はいぃ。でも、いいんですかぁ?」

「私がいいと云ってるからいいのよ。それじゃ」

 余裕ありまくりな主任死神さん。母と娘ほどの差がありそうな、そんな会話内容だった。そうして主任死神さんは去っていき、どじ死神さんの食事が再開される。

「うぅぅぅ〜。おいし〜ですぅ〜」

 心底美味しそうに食べ続ける死神さんは、やっぱり子供っぽかった。何だか段々うっとりしてきて。

「あ〜う〜。おいしいものいっぱいで、私し・あ・わ・せです〜。生きててよかったですぅ〜。えへへへへ〜〜〜」

 最後にデザートのプリンを食べてご満悦。

「……」

 僕もさすがに苦笑。と云うかおいおい、と突っこみを入れたくなる。お前死神ちゃうんかい! と。死神が生きててよかったはないだろがっ! まったく。何という脳天気な死神なんだかっ!





食事の終わりと共に、お別れの時が来た。





彼女は名残惜しそうに、ごちそうさまでしたとぺこぺこ頭を下げて去っていった。





お約束かもしれないけれど。次に彼女と会うのは、僕が年老いて





何十年もたった未来の事かな? などと思ったのだけど。





 再会の日は意外過ぎるほど早く来た。……その日から数ヶ月もたった頃の事。

「こんにちは〜」

 休日なので、アパートの自室でくつろいでいると、チャイムと共に玄関の外から声がした。いつかどこかで聞いたような声が。はーいと返事をしてから出てみると、そこには……。

「あは。お隣に引っ越してきちゃいました〜。引っ越し蕎麦をどうぞ〜」

 いつぞやの死神少女が笑顔で引っ越し蕎麦をくれたのだった。これは世間一般で云うところの押しかけ女房、というやつだった。

 どうやら僕は、死神に取り憑かれたと云うのか。……もしくは、餌付けに成功してしまったみたいだ。














-続く-

















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