PureMix2nd
-二木佳奈多編- 素直になればいいと他人は簡単な事のように言う。けれど、物事は簡単な事ほどかえって難しかったりすると思えてしまうのは恐らく、私が極めて不器用で融通の利かない性格だからなのだろう。それでも、最近ようやくわかってきたことがある。何事もできないと早急な判断をするよりも、まずはとにかく実践してみることだろうという、至極当たり前のことが。勝手に思い込んだり決めつけてはいけないと、このところ意識をして常に自分に言い聞かせるようにしている。そんな事ができるようになったのはごく最近の話だ。 思えば私はずっと自分に対して嘘をつき続けてきた。無論、自分だけじゃなくて多くの……それもとても大切な人達に対して。申し訳ないとは思っているし、ごめんなさいと謝りたくもなった。けれど結局何もできず、私はその都度嘘を上塗りしてはごまかし続けてきた。きっと私が誰かに対し『悪いと思っているわ』などと言ったところで、言われた相手は私に挑発でもされているように思うか、あるいは馬鹿にでもされているとでも思うことだろう。私の言葉がたとえ本心であったとしてもで、自業自得ながら、私には人徳のかけらすらないのだ。 ――私達はあまりよく知らない街を二人揃って歩いていた。この状況は世間一般的にはデートということになるのだろうが、直枝がにこやかに『デートだね』と言ったの対し、私の反応はとてもそっけないものだった。違うわ。ちょっと二人で歩きたいなって、そう思っただけよ。だからこれはただの散歩。勘違いしないでよね、と。 「最低ね」 意味などはない。お決まりの台詞と言うべきか、口癖と言うべきか。最低とは自分に対しての言葉。臆病で、頑迷で、嘘で塗り固めたぶ厚い仮面を被り、素直な自分をさらけ出して人と向かい合っていない卑怯者。そんな私が何を考えたのか生真面目な風紀委員をしていたなど、本当に滑稽極まる。 だけど、そんな私を惨めな境遇から救い出してくれた人がいた。もちろん彼だけでなく、多くの優しい人達からの助力があっての結果であることは間違いないけれども。彼を始めとして多くの人達に感謝している。いくらしてもし足りないと思う。口に出して言っても誰も信じてくれないだろうけれど、本心だった。直枝理樹に、妹の三枝葉留佳。他にも何人も……。 「うん? 佳奈多さん、呼んだ?」 喧噪にかき消されてしまうくらいの、かすかな呟き。直枝の耳にも聞こえていたようで、まさに狙いどおり。ふふ、と私は微笑んでいた。ほら、やっぱり意地悪で最低な女だ。 「気のせいよ。耳でも遠くなったのかしら?」 「そうかもしれないね」 このようにして時折わざと、彼が聞こえるか聞こえないかギリギリくらいのかすかな声で名前を呟いてみたりしている。そうすると彼は決して否定などせず、そっか、と照れたように笑う。ふと、どうして私はそんなことをするのか、考えてみる。もしかすると私は直枝の笑顔が見たくてついそんなことをしてしまうのかもしれない。けれど、その答えはどこかで認めたくないなと思う。 「そっか。佳奈多さんは耳がいいんだね」 「別にそういうわけじゃないけど」 こんな状況からは想像もつかないだろうが、直枝と私はその、お付き合いをしている。そうしていつからか、直枝は私のことを名前で呼ぶようになっていた。『二木さん』ではなく『佳奈多さん』と、ごく自然に。気が付いたらそうなっていたというところだけれども、私の方は彼の事を未だに名字で呼んでいて、どこか余所余所しい。でも、その……最初は名字を呼ぶのですら一大事だったのだけども。 「ねえ、直枝」 「うん」 「素直になるには、どうすればいいと思う?」 本当は私だって、彼氏の事を名前で呼んでみたい。けれど、すぐにはできないだろうとも思う。そんな悩み事をぶつけるように、直枝に聞いてみるのだったが、あまりにも単刀直入に聞きすぎた。直枝はぽかんとしたような表情で、一瞬硬直してしまったようだ。失敗した。ああ、この質問はなかったことにして欲しいと強く思った。 「ああ、そうよ。私は素直じゃないからね。もちろん自覚してる。だから、どうすればいいのかなと思ったのよ」 からかわれたりすると悔しいので先手を打っておく。直枝は茶化すわけでもなく無視するわけでもなく、結構真剣に考えてくれている。彼のこういうところに、何人もの女の子が惹かれたりするのだろう。 「そうだね。笑顔をいっぱい見せればいいんじゃない?」 「ふうん。笑顔を、ね」 別に、普段から見せていない訳じゃないと思うのだけども。言われて口元をわずかに歪ませて見せる。 「ああ、笑顔っていってもそういうのじゃなくてね。……本当に、佳奈多さんはクールすぎるんだよ」 直枝ははっきりと言い切った。ふうん、私はクールに見えるんだ。クール、ねえ。どこがクールなんだろう。 「正直、嘲笑に見えちゃうこともあるかも」 「……直枝は私のことをそういう風に」 「思ってることも正直あったよ? 今は全く違うけどね」 言葉を途中で遮られる。それはきっと、私がまだ葉留佳を拒絶する態度をとっていた頃のこと。直枝にとって私の第一印象は最低最悪なものだったことだろう。まあ、無理もないことか。紆余曲折、色々とあり過ぎたのだから。今思い出しても泣き出したくなるほど醜い自分がいた。そうして時が経ち、誰もが皆優しくて私を許してくれたのに、時折猛烈に、例えるならば土下座をして床に頭をこすりつけてでも謝りたくなる。それにしても、直枝が言うところの今は違うとはどのような意味なのだろう。とりあえず、口元を歪ませる笑い方ではだめなようだ。 「じゃ、どういう風に笑えばいいのよ?」 「それは。……ああ、何となく分かった気がする。じゃあさ」 「ん」 そしてそれから、拷問のごとき時間が流れる。
口を大きく開け、ウインクでもしそうなくらい目もとも緩ませ、声も普段より高めにするようにとのこと。これではまるで私が私ではないみたいだ。私に極めてよく似た女の子に見えてしまうことだろう。そう、あの娘のように。まさにそれが直枝の言うところの演技指導だった。あの娘……葉留佳をイメージして、と。 「へ〜い! 理樹くんやっほ〜! かなちんなのですヨ〜!」 ああもうっ! ばかっばかっばかっ! ……言ってから本当に後悔した。いや、大後悔と言った方が適切だろうか。私は自分の情けない姿に呆れ果て、八つ当たりをするように直枝の提案にケチをつける。何をしているんだろうか、まったく。 「……はぁ。ばかね」 「そうそういい感じ。そのテンションだよ佳奈多さん。そのテンションを維持すればいいんだよ」 そんなことできるか。と、思う。 「こんなことさせて何がいいのよ」 やはり自分には合わない。葉留佳の真似をするなど。……双子の姉妹といっても見た目はともかくとして、そもそも性格が違い過ぎるのだから。何が、かなちんなのですヨ〜、よ。思い出していたら更に猛烈に恥ずかしくなってきて、思わず私は目を伏せる。 「そんな感じに、葉留佳さんみたいに明るくなってみればイメージも変わって、素直になれるんじゃない?」 「直枝は単に私をいじくって恥ずかしがらせて楽しんでいるのでしょう?」 きっとそうなのだろう。そうとしか思えない。最近この男は私をからかって喜んでいるのではないかとちょっとだけ思う。 「そんなことは、ごめん。ちょっとあるかも」 ああ、やはりその通りのようだ。 「最低ね。最低」 二度繰り返して罵るのが口癖なのかと指摘されたことがあるけれど、どうしてこう、ことある事にツンケンしてしまうのだろう。ああ、やっぱり私は最低だ。 「っていうか、恥ずかしいの?」 それはそうだろう。だから私はため息をつき、呆れたのだ。ある意味軽率な事を言ってしまった自分と、直枝の馬鹿馬鹿しい提案に対して。 「かなり」 直枝の様子をみれば丸分かりだけど、ため息をついてみせる。 「それだよそれ。その、最低ね、が佳奈多さんが素直じゃないイメージになってるのかも」 「どういうこと?」 「何だか無理してるなーって。そう思う」 どうしてこう、簡単に見抜かれてしまうのだろう。じゃあいいわ。私は何の脈絡もなく唐突にあることを言う。きっとそれは照れ隠しというやつだろう。なら、こう言ったら直枝はどう反応するだろうか? 私は興味本位で、らしくないことを言ってみるのだった。 「じゃ、無理しない。直枝、キスして」 「え?」 建物の影に入り、辺りに人の姿は見えない。だからか、私はそんな事を言うほど強気になっていた。 「素直になれと言われたから早速挑戦してみたのよ。で……直枝はどうなのよ? 人に素直になりなさいとか言っておきながら、何の反応もしてくれないの? もしかして私は本当に直枝に弄ばれてるのかしら? 遊ばれてるだけ?」 毎度の事だがどうしてこう、むやみやたらに喧嘩腰になるのだろう。挑発するように、いーわよ。やれるものならやってみなさいよ。できるものならね。ま、あなたは所詮口だけの人間でしょ? そうやって偽りの優しさを人に与えていいことした気持ちになっているだけ。まさに偽善よね。本当に最低ね。最低……。とでも、ねちねちと言わんばかりの口調で。全然、全くもって素直に慣れていない証拠。我ながらたまらなく悲しい。こんな時普通に甘えて、媚びた鳴き声をあげる猫のように『お願い、キスして』とでも言えたらと、強く思う。そんな事、葉留佳を始めとして他の女の子なら自然にできることだろう。私はどこかおかしいのだろう、きっと。 「ふーん。いいよ。じゃ、僕も素直になるよ。思いっきり、ね」 直枝はなかなか負けず嫌いだ。私の挑発にのったのかノリがいいのか、行動に移してきた。そして突然視界が完全に遮られる。私は唇を塞がれていた。何よ、そんな程度で動揺するわけが……ない。はず。 「……んっ!」 「どう?」 「っ。せ、説明が足りなかったわ。私は……その、や、優しいキスをして欲しかったのよ」 一瞬呼吸が詰まり、クラッとする。けれど決して苦しくなく、心地の良い気持ちが込み上げてくる。そして緊張したように、どきどきと鼓動が高まっていく。 「僕はちょっと激しいのを望んでいたんだけど」 何というか、噛み合わない。いや、そうでもないか。どうしてなんだろう。嫌じゃない。それどころか……。そう思える事はつまり、噛み合っているのだろう。 「もっとして欲しい。そんな風に思っていそうだね、佳奈多さん」 「……どうしてあなたは、そうやってすぐに人の心を見透かすのかしら」 そのうち私は自然に笑えていたみたいだった。 「わかっちゃうから。……で、僕はどんな風に最低なの? 二回繰り返して言わないの?」 くっ! ……こ、この男は、完全に私の思考を先読みしている。何故だかわからないけれど、猛烈に悔しい。 「まだ何も言っていないわよ。人の発言を予想してるだなんて、ほんとーに最低ね」 ああ、言わなくてもいいのにやっぱり言ってしまった。『最低ね』が口癖だなんて、どれだけ冷たくて酷い女なのよ、私は。 「そうかも」 「まあ、直枝に変えられてしまった私自身も最低ね」 「可愛いと思うんだけどなぁ。あ、わかった。佳奈多さん、照れ隠ししてるんでしょ?」 ぐっ。と、一瞬言葉に詰まる。最低、という言葉がくどく感じられる。悔しい悔しい悔しい、けれど適切な言葉が浮かばない。ボキャブラリーの貧困さがたまらなく悲しい。ふと思うのだけど、さっきから何を意固地になっているんだろうか、私は。 「……最低ね。直枝なんて嫌いよ」 違う。言葉は危険。わかっていて、いつしか嘘が本当になることがあるのだから。あまりにも軽率で迂闊な発言に、私は深刻に後悔してしまう。 「そうなんだ。僕、ふられちゃった」 「どうして、ふられただなんて言うのよ」 「佳奈多さんが僕の事を最低最低言うから、嫌われちゃったんだなって、普通そう思うよ」 もう、と思う。最低なのは自分。それをはっきりと言葉に出せない自分が歯痒くて、許せない。でも、このままでは本当に私がふられてしまうのではないかと、一瞬だけどそんな恐怖心が芽生えていたのも事実。けれど、弱みは見せられない。私はフッと鼻で笑い、余裕を見せつける。 「冗談よ。嫌いになんてなる訳がないじゃない。私がそんなに弱い女だとでも思った?」 「よかった」 ほっとする直枝。冗談っぽく見えて、どこか本気でほっとしているのかもしれない。何となくだけどそんな気がする。何気無い軽口で大切な人を不安にさせて、ますます自分の事が嫌いになっていく。こんなぎこちない関係のままではいずれ……。破局を想像し、私はぞっとしてしまう。そうなりたくない。どうすればいいか……その前に私自身が変わらなければならない。最低な自分の性根を叩き直さねばならない。 「直枝。お願いしたいことがあるの」 「何?」 私は諦めが早い。達観したように見えて実は強がっているだけ。それなものだから、ずっと大切な人を傷つけてきた。もう少し他にやり方もあったろうにだ。だから、自分自身では『それ』をすることはできないだろう。ではどうすればいいか? 直枝にしてもらうことにする。他力本願だけど、仕方がない。私が思うところの『それ』とはあまりにも簡単すぎるようでいて、難しい事。 「私を素直にさせて」 キーワードは『素直』だった。何のこっちゃ、と直枝は思っていることだろう。この場ではない別の場所で、私がこの間思っていた不安や歯痒さを洗いざらい全て直枝に話してみようと思う。 そうしてふと道の脇に、丁度良さそうな場所を見つけた。そこがどんなところかなんて、今の私は深く考えなかった。 話をしてみた結果はまさに案の定といったところだった。
直枝は本当に優しい。……人がよすぎる程に。
私は所詮上辺だけの人間。直枝と付き合い始めたのもただの成り行き。ただ、心地良い関係に浸って流されるだけの毎日を過ごす、堕落した人間。 耳年増もここに極まる、とでも言ったところだろう。それこそ例えるならば身近にいる知り合い……あーちゃん先輩に負けず劣らずといったところかもしれない。なにしろ見知らぬ町で、知り合いや学校関係者に目撃される可能性が皆無だからといって、私に導かれどん引きしている直枝の腕を強引に握って引きずるようにして、たまたま横を通りかかったラブホテルへと入っていたのだから。そしてベッドの上にて直枝にのしかかり、迫るようにして求めた。……勢いはそこまでだった。 おずおずと直枝の手が伸び、私の体に触れ始めた。そうしたらなぜか頭の中で、だめ、と呟き、直枝の手を振り払っていた。言いようの知れない恐怖が体中を支配し、凍えるように震えていた。自分でしてくれと言っておきながらこれだ。情けなくて涙が出てきてしまう。 「わかっている。わかっているのよ! けれど……」 世界が幾度も巡っていようが平行世界があろうが関係ない。今更どう取り繕ったところで所詮は偽善に過ぎず、忘れられるわけがない。私は無意識のうちに葉留佳……と、ここにはいない人物のことを呟いていた。以前はいざ知らずみんなが受け入れてくれて、私のことを理解してくれていることもわかっている。それでも時折言いようのない罪悪感に苛まれる事があると打ち明けたら直枝は言った。誰も悪くない、と。もちろん佳奈多さんも、と。私の返答を最後まで言わせずに、直枝は言った。 「じゃあさ、こうしようよ」 要約すると、葉留佳は直枝に言ったそうだ。私と直枝が幸せになってくれることが一番嬉しい、と。今までのこと……辛かった思い出なんて忘れて、そうなってほしいと。だから後はそれを実践するだけだと直枝は言っている。 「僕は、佳奈多さんといちゃいちゃしたいな。佳奈多さんからじゃなくて、僕から望んだと思えば平気じゃない?」 私はどうなのだろう? もちろん……できれば、そうしたい。どうすればいいのだろう……。一瞬で思い浮かんだ事。それは……。 「手」 「手?」 私は直枝の手の上に自分の手を重ねていた。それくらいならば、抵抗もなくできることだろう。 「つないで」 「うん。はい」 「……」 直枝は優しく私の手をきゅ、と握ってくれる。思えば今まで、手を握った事なんてどれ程あっただろうか? 付き合っているはずなのに思い出せない。……好きな人と手をつないでいる。じんわり、と頬が赤く染まっていくのがわかる。 「佳奈多さんの手、小さくて可愛いね」 「直枝のだって……」 言葉なんてどうでもいい。ただ手を繋いだだけなのに恥ずかしいなんて馬鹿みたいに思う。けれど私はそのまま直枝の側に近づいて、寄り添っていた。 「直枝」 「うん?」 「彼氏、なのよね。私の」 「そうだけど?」 疑っているの? それとも、ただ確認したくて聞いたの? 私は何をしたいの? それなのに直枝は笑顔のまま。どこまで人がよいのだろう。このまま私が何もしなければ手を握ったまま、ずっとそのままに違いない。 「て、手を……つないだだけで、それだけでいいの?」 「佳奈多さんがそれでいいと言うのなら」 多くは望まない、と直枝は言っている。全ては私の事を思って。 「直枝……。私は言ったわよね。私を素直にさせて、って」 他力本願な自分が嫌になる。何が、素直にさせて、だ。自分からしなければなれるわけがないじゃない。誘ったり拒絶したり、突然トラウマに苛まれたと思ったら、今度はまたしてと。私はどこまで我が侭でばかで最低なのだろう。 「うん。そうだね。手をつないだだけじゃ、嫌だよね?」 直枝はペースを全く変えない。もう何も言えない。言葉にならない。恥ずかしい。 「わかった。じゃ、手をつなぐ以上の事もしてみるよ。……でも、嫌だと思ったらすぐに言ってね」 私はその優しい答えをあえて無視した。直枝に甘えたら、ずっと私は変われないだろうから。 (嫌になんてなるわけないじゃない。なるわけ……) その思いをもう少しだけでもいいから言葉にできれば、こんなまどろっこしいやりとりは生じないだろうに。直枝は私を抱き締め、導いていく。……ら、ラブホテルのベッドなんて、言うまでもなく初体験だけれども、意外と清潔でふかふかしていて柔らかくて、これまで漠然と抱いてきたイメージ……どろどろしていかがわしくて不気味そうで得体の知れないもの、とはまるで違っていた。こんなことをしていて元風紀委員だなんて、我ながら笑わせる。 ――その間も私は直枝に優しく愛撫を繰り返されている。私の長い髪を愛しそうに、丁寧に指先ですくい取ってはくるくると巻き付けたりしていじっている。直枝は私の顔をのぞき込むようにして近づいて、軽くキスをしていた。押し倒されてキスとくればもうドラマでは濡れ場の始まりで、現実だって何ら変わりはしない。初めてではないけれど、初体験以上の緊張感に満ちた瞬間が始まるのだ。また、視界が遮られて私は唇を塞がれる。 「直……枝」 「嫌、だった?」 そんなわけ、ない。じんわりと涙が浮かんでくる。好きな人とのキスが嫌な訳がない。けれど、嫌かもしれないと思わせてしまっている。全ては身から出た錆。自分の責任。大切な人にそんな風に気を使わせてしまっている自分の。素直になりたい。隠すことも冷笑することもなく、最低だなんて言ったりもせずに。それなのに……。 「最低。ばか……ね。嫌な訳、ない。す、き……に、決まってるでしょ。だ、だからもっと、して。キス……」 私の頬を涙が伝っていく。どうして大好きな人とのキスをしている最中に悲しんでいるのだろう? 望んでいるはずなのに、何を恐れているのだろう。 「うん」 また、直枝の顔が至近距離に迫っていった。二度目のキスで、私は温もりを知った。 「気を……使わないで……。私は直枝の、彼女なのだから。最後まで、して。彼氏と彼女がすることを……」 求めているのは私。望めば直枝は何でもしてくれる。拒んでいるのもまた私。 「うん」 直枝は私を抱き締めてくれる。とても力強くて、優しい温もりを感じて、今までどうして求めなかったのだろうと後悔した。 「佳奈多さん」 「ん……」 始まる。まだ、始まったばかり。するのは初めてじゃないのだし、我慢しなきゃ……。でも、涙がこぼれて止まらない。どうしてだろうと考える……。どこからか、葉留佳の苦痛に満ちた叫び声が聞こえてきた気がした。私がした惨い仕打ちに耐え切れず泣きじゃくり、震えながら嗚咽を漏らす妹の姿。大切な物を壊されて、蔑んだ目で見下ろされ、酷い言葉を叩きつけられている姿。更に私は……あの娘が一番好きな人を横取りしてしまった。もう、何も言い訳などはできない。ごめんね……ごめんね……ごめんね。きついことばかり言って、酷い目にばかりあわせて、好きな人を横取りして。どんなに許してくれたって、私はあなたのお姉ちゃんなどに戻れはしないよね、と思ってしまう。 「う、う……。葉留佳……」 「佳奈多さん」 「だ、め。だめ……なのよ……。どうしても……。私、こんな……の」 頭を抱えてぶるぶると震える私に直枝は言った。悪霊にでも取り付かれているかのような恐怖感に、直枝の好意を受け入れ続けることができない。だって私は最低の人間なのだから。今までの事など忘れて、のうのうと幸せになどなってはいけないのだ。こんなに求める一方の依存し続ける関係は、いっそこのまま終わらせてしまうしか――。 「佳奈多さん、聞いて」 「……?」 情けない私を見て直枝は悲しそうな表情になり、ズボンのポケットから携帯を取り出した。そうして突然イヤホンを私の右耳に当てると声が聞こえてくる。どうやらそれは通話ではなくて音声ファイルの再生なのだろう。声には聞き覚えがあった。とても身近なところにいる人物の声。元気で、マシンガンのように早口で言葉を撒き散らしていくような、おしゃべりが大好きな女の子の声。全く私とは似ても似つかない雰囲気の。 『やっほー。かなちんなのですヨー! ……じゃなくってはるちんやがなー! なんちって! さーてさてさておねえちゃん元気ー? 元気じゃないよねー? これを聞いてるってことはきっと、以前のあたし達のことを考えたり思い出したりしてめそめそしてるっしょそうでしょそうなんでしょ白状しなさいおねーちゃん! っというわけなので、未だに些細な事で悩みまくってるトラウマ症候群なおねーちゃんを目一杯励ますために突然妹参上なのですヨ〜!』 「あ……」 葉留佳の声。こんな私を救ってくれた声……。優しくしたかったのにできなかった、大切な人の声。 『ふふーん。こんなこともあろうかと、らぶらぶあまあまで幸せにいっくらでもなれるのになっちゃいけなーい、とか思ってる生真面目なおねーちゃんに妹のあたしが愛を込めたメッセージを送りにきたのだ! ……おねえちゃん、あたしにしてきたことなんて綺麗さっぱり全部忘れてうっちゃっちゃって幸せになんなさいーーーーー! なっちゃいなさーーーーーいっ! ……っていうかマジに言うけど、本当にそれがあたしの望みなんだよ? おねえちゃん聞いてる? おねえちゃんが……おねえちゃんだけじゃなくて、あたしにとっても大好きな男の子に存分に甘えて、ねだって、らぶらぶしまくってくれるのが一番うれしいんだからね? 本当だよ? っていうかそうしてくれないと泣いちゃうよ? マジ泣きしちゃうんだよ? はるちんのためだと思って理樹くんといちゃらぶな、隣にいるとうざいくらいのバカップルになんなきゃだめだよ? ね?』 「葉留佳……」 ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちる。私の頬を伝っていく雫。 『ほいじゃ、伝えることは伝えたんで後はごゆっくり! 避妊はしっかりにゃーーーー! っていうか幸せになんなかったらほんとにあたし怒っちゃうぞ〜! 聞いてるおねーちゃん? 聞いてなきゃやっぱり泣いちゃうんだからね! こう見えてもはるちん結構傷つきやすいんだから! それじゃお姉ちゃん、健闘を祈る! おねーちゃん幸せになーれ! ほいじゃっ!』 葉留佳は言いたいことを言いまくって、嵐のように去っていった。 なにこれ、と私の表情は物語っていたのかもしれない。何も聞いていないのに直枝は言った。直枝と私が付き合い始めた頃の事。ある時葉留佳がつかつかとやってきて直枝の携帯に音声ファイルを勝手に入れていったそうな。そして葉留佳は直枝に言ったそうな。付き合っていて、私がもし……こんな風になったら聞かせてと。今がまさにその時だったと直枝は判断したのだろう。流石に私の妹だ。予防線をしっかりとはっていたとは、やられたわね。 (葉留佳……) 気が付いたら私は直枝の胸に顔を埋め、聞き分けのない子供のように泣きじゃくっていた。 「ありがと……」 素直になるんだ。葉留佳のため。そして、自分のため。本当の自分をさらけ出して、大切な人に思う存分甘えて、互いに猫なで声を出しあっていちゃつき、じゃれあって……。葉留佳にからかわれるくらいに。迷わず、逃げずに。 「直枝……。私を、抱いて……」 「うん」 直枝はとてもうれしそうな笑顔だった。 …………
「ん、あっ」 私ははあはあと小刻みに呼吸をしつつ、裏声のようにはしたなく喘いでしまった。私はふかふかのベッドの上に仰向けに寝かされて、その上には直枝が乗っかっている。正常位というごくありふれた体位で私と直枝は彼氏と彼女がすることをしていた。幸いな事に最初から痛みは全くなく、すんなりと挿入は行われた。 「はぁ、はぁ」 決して急がずゆっくりとした動き。直枝の方から何度となく、痛くない? 苦しくない? 大丈夫? と、気遣いの言葉。それだけじゃなく、直枝は本当に優しい。何しろ私は今服を着たままで、ただ胸元に限定してブラウスのボタンを外してブラジャーを僅かにたくしあげてはだけさせられているだけ。それ以外は素肌を庇うようにして衣服の布地が覆っている。ごめんねと、言いたかった。傷物の体でごめんね、と。本当の自分を全て見せられないことがたまらず悲しい。そんな私の心を見透かしたように直枝は言った。 「綺麗だよ、佳奈多さんの胸」 「ん、ん! ば、ばかっ!」 私ははしたなく大股を開きながら、両手で必死にシーツを掴んでいた。ずぷ、ずぷ、と直枝が蠢くたびに私の中がかきまぜられる。自分のものではない異物が侵入してきているのだから。女の子にとって最も恥ずかしい箇所に。主導権を握られ、体を支配されていくような気分。 「ん……んーーーっ! で、電気も消してくれないなんて、最低よ! 最っ低」 これだけ優しくされていながら些細な事に対して不満を言うなんて、私は本当に我が侭で最低だ。少し黙りなさい私……と、意識の中の私は自分に対して叱りつけるように言っている。最低、という言葉をNGワードにでもできればいいのに。 「だって、消したら佳奈多さんの照れ顔が見られないじゃない」 「んひっ!」 一瞬強い衝撃。ずぶ、と奥まで入ってくる。強い衝撃に私は変な声をあげてしまう。ますます恥ずかしくてたまらない。顔中が熱くなっていく。 「ば、ばかね。ん、んんっ! ……て、照れ顔なんて見て、何が嬉しいのよ。もうっ」 「嬉しいよ。大好きな人が照れているところなんて、可愛すぎてたまらないんだから」 そう、なのか。きっと、そうなのだろう。大好きな人……直枝が照れているところ。一瞬想像して、何だかものすごく微笑ましいような、もどかしいような、見ているこっちが恥ずかしくなっていくような気持ちになった。て、照れているのならば、相手を照れさせてやるのみだ。 「直枝。好きって、言って」 「好き」 「ん……」 目と目が合わさる。私は口元をほころばせ、目もとを緩めて微笑んでいた。ツンケンしていると自他共に認めている私が……。変わったのか、元からなのか、そんなことはどうでもいい。何でも聞きたがる幼児のように、私は言った。相手を照れさせようとして、逆にこっちが更に照れていく。ミイラ取りがミイラになる、というところだった。 「大好きって、言って」 「大好き」 「足りない。もっと」 「もっと、なの?」 「もっと」 何だか、いつぞやのファーストフード店で注文した時のことを思い出した。確かレギュラーバーガーピクルストマト抜きケチャップ増量、だったか。今思うと、あの注文はもしかしてかなり迷惑なものだったのかもしれない。あの時は確か食べているときに、私の頬についたケチャップを直枝が拭き取って……あ、ああっ! し、死にたくなるほど恥ずかしいわ! 待って。大好きの増量注文はやっぱりキャンセルで、と言おうとしたけれど既に遅かった。直枝はすうっと空気を大きく吸い込んで……。 「大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好きだいきす、って、噛んじゃった」 「ぷ……」 早口言葉に挑戦しているんじゃないんだから。おかしくて私は思わず吹き出していた。本当にもう、言わなくてもわかっている事なのにね。非合理的と言うよりも無意味なはずなのに、好きという言葉を聞いた途端に、体中がきゅうん、と痙攣でもしたように震える。恥ずかしさが心地良く感じられるなんておかしいのかもしれない。 「ん……」 自然にアイコンタクトを試みる。潤んで視界がぼやけている目で直枝に合図。今私が望んでいること……。私の心を見透かして、と思った。そうしたらお望み通りのキス。直枝は私の望みに答えてくれる。私の意識に好き……という気持ちが高速で増殖されていく。つい、えへへ、と無邪気な子供のように笑っていた。まったくもって自分らしくない。その間も私と直枝はずぷ、ずぷ、と一定の間隔でゆったりと交わっている。体が僅かに揺れていく。私のいやらしい声が、漏れる。 「あ、あ……。直枝」 包まれていく。暖かくて優しくて満ち足りていて、何の憂いもない気持ち。 「何?」 「ん。何でもない」 こぼれる涙は悲しさではなく嬉しさの証し。何故だか笑顔を解くことができない。意味の無いやりとりがたまらず嬉しいのだ。 「そっか。何でもないんだ」 「そうよ。何でもないの」 直枝も嬉しそうに笑っている。 「ねえ、直枝」 「うん。何かな?」 あえて思いきり、本気で甘えて猫撫で声を出してみる事にした。語尾を延ばして媚びるように。何事も挑戦だと思うし、聞いている相手は直枝だけだから恥ずかしくない。 「キス、してぇ。……ん、んん、ん、んん……ん」 「へぇ。佳奈多さんが甘えてるなんてね」 「わ、悪い? 私だって……好きな人に甘えたくなったり、するわよ」 「全然悪くない。もっといっぱい甘えて」 「うん。……キス、もっとして。……ん、ん」 ほら、言えた。言えたよ葉留佳。私もこんな風に素直になって甘える事ができたんだ。直枝と葉留佳。背中を押してくれた二人に感謝する。私のおねだりに対してもちろんいいよと言うように、直枝は私の気が済むまでキスをしてくれる。離れたくなければ窒息するまでそのままかもしれない。もし仮に、そのまま死んでしまったとしても私は絶対に後悔しないと断言できる。 「好き……。好き……」 最低……だなんて言ってばかりで本当にごめんなさい。あなたが好き……たまらなく好き。素直になれなくて、散々憎たらしい事ばかり言ってきてごめんなさい。我が儘でどうしようもない娘だって痛いくらいわかっているけれど、嫌いにならないで、ずっと好きでいてと強く思った。もっともっと、好きという気持ちが止まらない。私は直枝の手を握りしめていた。 「ん、ん……。いっぱい、強く……して」 「うん。わかった」 ぎし、ぎし、とベッドのスプリングがきしむ。直枝が押し込むたびに私の体は柔らかいベッドの中に沈み込んでいくように感じる。クッション代わりの大きな枕が辛うじて支えている。 「あ、あん……あ、ん……ああん、はぁん。好き……すき、ぃ。……なお、え。き、キス……したまま、してぇ」 「うん」 ぷちゅ、くちゅ、と淫靡な音。もう、キスと言うよりも舌と舌をれろれろと絡ませ合うような行為になっていた。ずぷ、ずぷ、と水音を発てて私の中を直枝のものが犯していく。汚されているのではない。大好きな人の色に染められていっているんだ。 「んふ、んぅ……。す、き、んんぅぅ……んんぅぅん」 こんな状態で好き、と言おうとしても上手く言えるわけがない。わかり合えているのだから言う必要もない。けれど言いたくてたまらなかった。 「佳奈多さんのおっぱい、ふにふにだね」 密着して、直枝の胸と私の胸が触れ合っている。私の十数ミリくらいに思いっきり勃起した乳首と、直枝のそれとがぴったり一致するように絡み合っていた。 「ん。触って……」 きゅ、と胸に触れられる。どきどきした鼓動がばれちゃうかな、と思った。もし指摘されたら答えよう。直枝の事が好きだから、どきどきしているのよ、と。そうしたら悪かったわね、とか最低ね、何て言葉がその後に続くのかな、やっぱり。 「ぷるぷる、だね」 「あ、ん」 揉まれるとふにふにとした感触。微弱な電流が流れるように、少しぴりぴりとくすぐったい……こそばゆくて気持ちいい。同時に私の股間をいやらしい滴がとろりとこぼれ落ちていく。胸を軽く触れられただけなのに感じて、濡れてしまったのだ。 「あ、ん、ん。直枝……」 もう、限界だった。少しずつ、こつこつと積み上げるようにゆったりとした快感はやがて高まって、静かに絶頂を向かえていった。また、目で合図。私をいかせて、とおねだり。……そんなことするまでも無く、直枝もそのつもりだった。 「あ、ん、はぁ、ん、ん、ん……」 「ん……っ。佳奈多さん、ごめん……。もう、いきそう。あ、もうだめ」 直枝はきつく目を閉じて、堪えるように辛そう。 「ん……。いって。我慢しないで……」 経験もない。テクニックなんて勿論ない。極めてワンパターンで、体位も体勢もずっとそのまま変わらずにただベッドのスプリングをギシギシときしませ交わり続けているだけという味気無さ。そして更に、なかなか二人仲良く絶頂を迎えるというわけにはいかない。私はまだ大丈夫だけれども、直枝は達しかけているようだった。それでも、不満なんて全く無い。全身で好きな人の温もりと息遣いを感じられているのだから。 「あ、ふっ……」 「くうっ!」 私の股間から引き抜かれたものからびゅく、びゅく、と勢いよく滴が飛び出し、下腹部を白く汚していった。 「ごめん。早くて……」 直枝は早漏が情けないと思っているようだけど、謝る必要なんてない。だって私の体で気持ち良くなって、感じてくれたのだから。 「ん、んにゅ……ん、ん……すき……」 今度は私からのキス。両手を直枝の背中に回して抱きついて、そのままキスをした。寝言のようにろれつが回らないけれど、すき……と呟いた。 「直……枝。もう一回、して……。ん、あ、んん……ん」 離れちゃ嫌だ。私は尚もはしたなくおねだりをする。直枝は微笑みながらいいよと答え、また私の中へと入れてくれた。ずぶずぶとめり込み、熱いくらいの温もりに包まれていく。達したばかりだというのに、直枝のものは堅さを全く失っていなかった。 「んんっ」 「佳奈多さん……」 「ん……。何?」 「笑ってる。楽しいの?」 どうやら私は微笑んでいるようだ。そのことを私自身は気付かなかったけれど、直枝は気付いたようだ。 「そりゃ、勿論。好きな人にいっぱいしてもらえているんだから。楽しくて、嬉しくて、幸せよ」 本心だった。今まで、そんな当たり前の事すら素直に言えなかったのに、私は変わっていく。 「んっ。直枝ー……。好き」 「僕も。好き」 葉留佳に負けないくらい、満面の笑みを見せる。直枝も笑いながら答えてくれる。 「ねえ、直枝。いっぱい……。もっといっぱい、好きって言って」 「うん。好きだよ」 「私、も……。ふふ」 ずく、ずく、と私と直枝の繋がったところが音をたてながらこすれている。先程は直枝が達したけれど、今度は私の番のようだ。体中が敏感になっていて、肌が触れ合うだけで気持ちが高ぶっていく。 「あ、ふっ。んんっ。……あっあっあっあっ! はっ……ふっ、あっふっ」 私の首筋に直枝の舌が這う。同時に両手で私の胸を揉み回す。こそばゆい……。私の中を直枝のものが大きく前後する。さっきよりも力強く、早い。何かが込み上げてきて、いっぱいになっていく。私は動くことができず、ただ直枝に攻められるばかり。 「いきそう、なの?」 「……」 僅かに頷く。もうそこまで何かが込み上げてきている。……今更ながら、恥ずかしさが込み上げてきて止まらない。ずん、と奥まで貫かれて、私は絶頂を迎えた。視界が一瞬白くなって、意識がどこかに飛んでしまいそうだった。 「あ、ああぁ、あ……う、んんんんっ! す……き……っ!」 こぼれゆく涙は嬉しさの証。後はもう、身も心も直枝に任せるだけ。ひたすら好きな人に包まれていく幸せに、私は浸っていった。 …………
帰り道。二人揃って歩く。左側に直枝、右側に私。つかず離れずな距離を維持しつつ、ゆったりとした歩みを続ける。 「直枝、直枝」 「ん。何?」 今度は意地悪をせず、聞こえるように名を呟いてみせる。何、と問われるのを待っていたかのように、私は答える。 「何でもないわ、直枝」 「ふーん。そう」 「そうよ。……直枝」 少ししつこかったかもしれない。意味もなく、脈絡もない。直枝はにこにこと笑いながら言うのだった。 「僕の名前、呼んでくれてありがとう」 別に呼びたくて呼んだわけじゃないわと、答えようとしたが、先を越される。もう、私の思考パターンは完全にお見通しのようだ。 「いっぱい、練習してくれたんだよね」 練習……。彼……直枝理樹の名をフルネームじゃなくて、名字で呼ぶ事。それはもう、拷問のような時間だった。鏡を前にして、自分が自分じゃなくなっていくかのように恥ずかしい一時。今は……今でも変わらないかもしれない。本当は彼の事を名字ではなく、名前で呼んでみたい。けれどそんなことをしたら私の頭は熱くなり過ぎて、脳細胞が死滅してしまうかもしれないので未だに実現はできていない。どうしてそんな簡単な事が難事業なのよ。本当にもう、融通も何もあったものじゃない。 「わ、悪い?」 「ううん。全然」 「そお。……はぁ。もう、だめね。私」 どうしてこうなのだろう。敵意を剥きだしにして、突っ掛かるように憎たらしい態度。減らず口はいつまでたってもかわらない。自分で自分のほっぺたをつねってお仕置きでもしたいところ。 「何がだめなの?」 「っ!」 どこまでも鈍感なのだろうか。あるいは狙って聞いているのか。私は少し苛立ちながら、直枝の腕に掴みかかっていた。 「き、決まっているでしょ! その……た、ただ、好きな人の名前を呼びたいだけだったのに、いつまでたっても素直に呼べないのだから」 本当に、落ち込みたい気持ちになってくる。けれど直枝は言った。全然問題ないし、だめなんかじゃないと。 「佳奈多さんは間違いなく素直になってきているよ。今だって僕のこと、好きって言ってくれたし。それにさ」 「それに、何よ?」 「佳奈多さん、本気で気付いてないの?」 「だから何に! 回りくどい言い方しないで、はっきり言いなさいよ!」 私は何をムキになっているのだろうか。 「佳奈多さん、実は腕、組みたかったんでしょ?」 「っ!? あ……っ!」 つい十数秒前のこと。直枝に掴みかかっていた私はそのまま、直枝の腕を離さないでいた。指摘され、とっさに振りほどこうとしたが、直枝は既に腕に力を込めていてそれを許さなかった。最初からお見通しだったように。恥ずかしい。蛇の生殺し状態にされてしまった。直枝は全くもって意地悪だ。意地悪? 意地悪、ですって? あなたにだけは言われたくないわね、二木佳奈多! そんな感じの台詞をいつも他人に向けて言い放っていたのは誰だ? 「僕は、佳奈多さんと腕を組みながら歩きたいな」 「わ、私だって……。直枝と……腕を組みながら歩きたいって、思っていたわよ……。でも、でも……」 引っぱたきたい。この期に及んで未だに素直になれない自分を思いっきり。 「僕は素直になろうと努力しているけどなかなかなれない佳奈多さんのこと、大好きだよ」 「じ、じゃあ、素直になれたらどうなるのよ」 私は尚も虚勢を張り続けるが、それは変化を恐れているからなのかもしれない。好きと嫌いは表裏一体。変わらなければ全てが良いのだろうか。そんなふうに不安を感じた私が馬鹿のように感じられるくらい、直枝の答えは真っすぐだった。 「勿論素直な佳奈多さんも、大好き。きっともっと好きになっちゃうと思う」 八方美人。二股をかけている浮気者。ああ言えばこう言う都合の良さ。もう、最低。最低よ最低。二回だろうが三回だろうがいくらでも繰り返して罵ってやりたいくらいに。本当にもう、何故だかおかしくて笑みが込み上げてくる。微笑どころじゃなくて、思いっきり吹き出してしまうくらいの笑顔。 「もう、ばかねっ。ふふ……。そんなに好かれても、何も出ないんだからね」 大好き、という気持ちが心の底から込み上げてくる。私は直枝の腕にしがみつくようにして、思いっきり温もりに身を任せながら言った。 (葉留佳……。ありがとう) 心を偽る事なく、好きな人に甘えて身を任せている。今度、大切な人にお礼を言おう。あなたとみんなのお陰で、私は変わることができた。感謝の気持ちでいっぱいよ、と。 (大好き……) 私はまた、直枝に聞こえないようにこっそりと囁いたのだった。が……。 「僕も」 「っ!」 聞こえ……ていたようだ。どうしてしまったのだろうか。意識と行動が一致しない。私はとっさに知らんぷりをしてみせるがしかし、ばればれだった。私はもう完全に、直枝の手の平の上で転がされているのだった。おかしくてたまらなくて私は笑顔を崩せなかった。 「気のせいよ。私は大好き、だなんて一言も言っていないんだからね」 「今言ったじゃない」 「揚げ足取り」 年頃の、ごく普通の女の子になれているかな。少なくとも一つだけ、これだけは確実に言える。 (やっと、素直になれたよ。葉留佳……) ――帰り道はゆっくりと時間をかけて歩む。少しでも長く一緒にいたいから。 (あなたも――。ありがとう。直枝……。ううん。り、理樹) やはり恥ずかしくて、とてもじゃないけれど直枝の事を名前ではまだ呼べない。けれど、いつかそのうちに呼べるようになってみたいと望んでいる。直枝、じゃなくて……理樹。いや、だめだ。い、いつかなんかじゃない。今なら言える。……かも。さ、さりげなく、ごにょごにょとどさくさに紛れるように、直枝ではなく理樹、と勇気を出して言ってみよう。 「り、理樹……」 これまでにないくらいのタイミング。直枝達が言うところのホームラン級の当たりだった。しかし――。例えるならそれは、ポールを無理やり移動してファウルにされてしまったような感覚だった。 「え? 今何て言ったの?」 「っ!」 どうしてこのようなタイミングで聞き返すのか? もしかして、あえて聞こえなかったふりをして私を羞恥責めにして喜んでいるサディストなのかこの男は? 実は地獄耳だと思っていたのに裏切られたわ。折角、ほんの一瞬とはいえ、名字ではなく名を呼ぶ事ができたのに。二度目なんてない。あるわけがないでしょう。あるものですかっ! 「もうっ! し、知らないっ! ばかっ! 最低ねっ! 本当に最低っ!」 いかがわしい行為をしている時のごとく、顔が熱く赤くなっていく。私は抗議代わりに全身で直枝の腕を思いっきり握りしめて引っ張ってやった。締め上げるみたいに強く。そうしたら直枝は、わあっと叫びながらよろめいた。 ……道程はまだまだ遠いかもしれないけれど、全然辛くなくて、楽しくて優しい。足取りはいつしか軽くなっていた。 まさに今はそういう瞬間なのだった。
----------後書き----------
さて、リトバスは佳奈多話解禁なわけで、いかがでしたでしょうか? ツンデレというか、クーデレキャラというのは今一つイメージがわかなかったのでこれまであんまし書いてこなかったわけですが、シリーズものは全員制覇するのが信条なので避けては通れぬ道なのでした。 葉留佳も佳奈多もシナリオ本編が大分重たくて辛くて悲しいものだったので、とことんあまあまで幸せな雰囲気にしてみた次第。その分えっち度は落ちるかもしれないけれど、そこはそれ、不器用な二人を表現するということで一つご理解を。 佳奈多話は今後も少し書いてみようかと思うのでありました。
ご感想を頂けると嬉しいです。
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